※画像はイメージです。出石城(有子山城)
Izushi Castle (Ariko-yama Castle)
出石城(有子山城)は慶長9年(1604年)小出吉英が山麓に近世城郭として出石城を築城。背後の有子山城(中世山城)と組み合わせた二段構えの城郭として機能に築かれた関西の名城。城主は山名祐豊(有子山城を改修)→ 羽柴秀吉(丹後・但馬平定後)→ 小出吉政 → 仙石氏 → 松平氏(幕末まで)(Yamana Suketosa (rebuilt Ariko-yama Castle) → Hashiba Hideyoshi (after Tajima pacification) → Koide Yoshimasa → Sengoku clan → Matsudaira clan (through Meiji))。
概要
出石城は兵庫県豊岡市出石町に位置する近世城郭で、背後の有子山(ありこやま・標高321m)山頂に残る中世山城「有子山城(ありこやまじょう)」とともに「但馬国(たじまのくに)出石」の歴史を体現する城跡として、「但馬の小京都」と称される出石の城下町とともに国の史跡に指定されている。
出石の地は中世から但馬を支配した山名氏(やまなし)の本拠地であった。山名氏は南北朝期から室町期にかけて「六分の一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれるほどの大勢力を誇り、全国66カ国のうち11カ国を制圧した時期がある一族である。応仁の乱(1467〜77年)の主要因ともなった山名宗全(そうぜん)はこの一族の最盛期を体現した人物であり、但馬山名氏は有子山城を本拠に但馬・丹波・丹後一帯を支配した。
戦国末期、羽柴秀吉の但馬平定(天正8年・1580年)によって山名氏の権力は終焉を迎えた。秀吉は明智光秀とともに中国地方・但馬への軍事展開を担い、この但馬平定を経て織田信長の中国・山陰支配が確立した。関ヶ原後の慶長9年(1604年)、小出吉英が山麓に近世城郭・出石城を築いて政治・行政の拠点とし、有子山城は詰城(つめじろ・最後の拠点)として機能する二段構えの縄張りが完成した。
江戸時代には仙石政明の「仙石騒動(せんごくそうどう)」と呼ばれる御家騒動や、信州上田から移封された仙石氏が蕎麦文化を持ち込んだとされる「出石皿そば」の歴史など、独特の城下町文化が形成された。出石の城下町は現在も江戸期の町割りを残す観光地として、豊岡・城崎温泉と並ぶ但馬の文化観光の核となっている。
刀剣との関わり
出石城と日本刀の関係は、山名氏という中世最大の武家の一族と、但馬という日本刀の重要な原材料産地の双方に深く根ざしている。 山名氏は応仁の乱の主役のひとりとして中世日本史に屹立する一族であり、その武家文化は南北朝・室町期の刀剣文化の黄金時代と重なる。この時代、「南北朝動乱期(1336〜92年)」と「室町前期」は日本刀史上、初期鎌倉〜南北朝期の名品が多数生まれた時期であり、山名氏のような大勢力はこうした名刀の主要な需要者・収集者であった。但馬山名氏に伝来したとされる刀剣は一部が地域の博物館・神社に残存しており、中世武家の刀剣文化の片鱗を伝える。 但馬国は古代から「但馬の鉄(たじまのくろがね)」として知られる砂鉄産地であった。出石・豊岡の背後に広がる中国山地(氷ノ山・鉢伏山地域)は豊富な砂鉄資源を持ち、但馬の地場鍛冶は古代・中世を通じて在地武士の需要に応じた鍛冶業を展開した。この「但馬鍛冶(たじまかじ)」の伝統は戦国期を通じて続き、出石・生野(いくの)の製鉄・鉱山業とともに但馬の鉄工業の基盤を形成した。 出石と隣接する生野(兵庫県朝来市)は「生野銀山」として名高い鉱山の地であり、戦国期には但馬・銀山の支配権が山名氏・尼子氏・毛利氏・織田氏の間で激しく争われた。銀山の収益は刀剣・甲冑をはじめとする軍事物資の調達資金として機能しており、出石城はこの銀山経済圏の中の城郭として、刀剣史の観点からも重要な文脈を持つ。
見どころ
- 出石城跡(国史跡) — 稲荷曲輪の鳥居群・隅櫓・石垣、但馬小京都の城下町を見下ろす
- 有子山城跡(中世山城) — 出石城背後の山頂に残る山名氏の中世城郭、竪堀・郭・石垣
- 出石皿そば — 仙石氏が信州から持ち込んだとされる名物蕎麦、城下町の老舗店が林立
- 出石永楽館 — 明治43年(1910年)建築の芝居小屋、現存最古の芝居小屋のひとつとして国登録
- 生野銀山(朝来市) — 戦国期の山名・毛利・織田が争った銀山、近世鉱山遺跡として公開
- 竹田城跡(朝来市) — 「天空の城」として有名な山名氏ゆかりの石垣山城、出石から車で約30分
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。