※画像はイメージです。宮津城
Miyazu Castle
宮津城は天正8年(1580年)細川藤孝が宮津城を整備、江戸期を通じて丹後の中核城郭として機能に築かれた関西の名城。城主は細川藤孝(幽斎) → 細川忠興 → 京極氏 → 奥平松平氏 → 本庄松平氏(Hosokawa Fujitaka (Yūsai) → Hosokawa Tadaoki → Kyogoku clan → Okudaira-Matsudaira clan → Honjo-Matsudaira clan)。
概要
宮津城は京都府宮津市に位置する平城で、丹後国(現・京都府北部)の支配の拠点として機能した城郭である。宮津は日本三景の一つ「天橋立」が市内に位置することで広く知られるが、宮津城は天橋立を擁する宮津湾の奥に築かれた水城であり、丹後一帯の海上交通を掌握する要衝に立地した。
城の整備に最も大きな役割を果たしたのは細川藤孝(幽斎)である。藤孝は足利将軍家に仕えた武将であり、武人であると同時に和歌・能・茶の湯に精通した文化人でもあった。特に和歌の秘伝書「古今伝授」を受け継いでいたことが、のちに関ヶ原前夜に劇的な場面を生む。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに先立つ同年7月、田辺城(現・舞鶴市)に籠もった細川幽斎は西軍に包囲された。後陽成天皇・朝廷が「古今伝授の断絶」を恐れた幽斎の籠城を問題視し、天皇自ら勅使を遣わして和睦を斡旋したという、日本史上きわめて稀な出来事が発生した。
関ヶ原後、細川家は豊前(福岡)、のちに熊本に移封。宮津は京極氏、次いで奥平松平氏・本庄松平氏の治政に移り、幕末まで丹後の中核城郭として機能した。城は明治維新後に廃城となり、建造物は解体されたが、石垣の一部が現存している。
刀剣との関わり
宮津城と日本刀の関係は、城主・細川藤孝(幽斎)とその子・細川忠興の武人・文化人としての側面から語ることが最も適切である。 細川忠興は千利休の高弟(利休七哲の一人)にして茶人としても名高く、武人としては虎御前山砦(賤ヶ岳の戦い)・小田原攻め・文禄の役・関ヶ原など数多くの合戦を経験した実戦の武将である。細川家には「歌仙兼定(かせんかねさだ)」をはじめとする重要刀剣が伝来しており、「歌仙兼定」は忠興が愛用した打刀として現在も細川家(永青文庫)に所蔵される名刀中の名刀である。「兼定」は濃州関(岐阜県関市)の刀工「之定(のさだ)」ゆかりの銘刀で、細川忠興が「三十六歌仙になぞらえる」と称えたことからこの名がついたとされる。 細川藤孝自身も武将として生涯を通じて刀剣を帯びたが、文化人としての素養から刀の美的価値にも深い理解を持っていた。藤孝は千利休・古田織部と交流し、茶の湯の世界における刀装具(こしらえ)の美的評価——侘び・簡素・枯れた味わい——を体現する武将であった。 宮津(丹後)は近くに京都・丹波(丹波篠山)という刀工の産地を持ち、宮津城下の武士たちは丹波(京都府中部)ゆかりの刀工の作品を入手しやすい環境にあった。近隣の山城・丹波・若狭などの刀工の作品も流通した。宮津城は細川家の刀剣文化——「歌仙兼定」を生んだ審美眼と武功——を語る上で欠くことのできない城郭である。
見どころ
- 宮津城跡石垣 — 城内の石垣が鶴賀公園として整備されている
- 天橋立 — 日本三景の一つ、宮津城の眼前に広がる砂嘴の景勝地
- 細川家ゆかりの「歌仙兼定」 — 宮津城主・細川忠興が名付けた日本刀の逸品(永青文庫蔵)
- 知恩寺(文殊堂) — 天橋立に隣接する名刹、細川家ゆかりの文化財を伝来
- 田辺城(舞鶴城) — 細川幽斎が「古今伝授」をめぐって籠城した隣城(車で約40分)
- 丹後王国・コウノトリの郷公園 — 丹後の自然と文化を体感できる周辺観光地
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。