※画像はイメージです。金ヶ崎城
Kanegasaki Castle
金ヶ崎城は平安時代末期〜戦国時代に築かれた中部の名城。城主は平通盛/新田義貞/甲斐氏/朝倉氏歴代敦賀郡司(Taira no Michimori; Nitta Yoshisada; the Kai clan; the Asakura clan (hereditary Tsuruga district governors))。
概要
概要
金ヶ崎城は福井県敦賀市金ヶ崎町、敦賀湾に突き出た標高86mの丘陵上に築かれた山城である。治承・寿永の乱の頃、平通盛が木曾義仲との戦いに備えて城を築いたのが起源と伝わり、以後南北朝時代から戦国時代にかけて幾度も戦乱の舞台となった。1934年に国の史跡に指定されている。
南北朝の攻防
1336年(建武3年/延元元年)、後醍醐天皇は南朝勢力の回復を図り、新田義貞に命じて尊良親王・恒良親王を奉じさせ、弟の脇屋義助とともに北陸へ下向させた。義貞は比叡山を発って敦賀へ向かい、同年10月に金ヶ崎城に入った。翌1337年(延元2年)3月、足利方の総大将・高師泰らの猛攻を受けて落城し、尊良親王は自刃、恒良親王は捕らえられ翌年毒殺されたとされる。
城主の変遷
南北朝期以後、越前守護代の甲斐氏が居城とし、長禄3年(1459年)には守護斯波義敏の攻撃を甲斐方が退けた。朝倉氏が越前を掌握した後は、金ヶ崎城は代々朝倉氏一族の敦賀郡司の居城として受け継がれた。
金ヶ崎の退き口
1570年(元亀元年)、織田信長は越前朝倉氏討伐のため出陣し、金ヶ崎城主・朝倉景恒を降した。しかし同盟者の浅井長政離反の報が届き、信長軍は敵に挟撃されかねない危機的状況に陥った。信長はここで全軍を撤退させ、この一戦は後世「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎崩れ)として広く知られている。
構造と現状
城域には本丸にあたる月見御殿跡のほか、木戸跡・曲輪・堀切などの遺構が残る。現在は公園として整備され、城域内には明治23年(1890年)創建の金崎宮が鎮座し、落城時に自害した尊良親王と、捕らえられた恒良親王を祭神として祀っている。
刀剣との関わり
『太平記』には、金ヶ崎籠城戦を戦った新田義貞が源氏重代の太刀「鬼切」と「鬼丸」の二振りを帯びていたことが描かれ、藤島の戦いで義貞が討たれた後、二振りは斯波高経の手に渡ったとされる。
刀剣との関わり
『太平記』には、金ヶ崎籠城戦を戦った新田義貞が源氏重代の太刀「鬼切」と「鬼丸」の二振りを帯びていたことが描かれ、藤島の戦いで義貞が討たれた後、二振りは斯波高経の手に渡ったとされる。
見どころ
- 月見御殿跡(本丸)
- 金崎宮
- 金ヶ崎の退き口ゆかりの地
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。