※画像はイメージです。敦賀城
Tsuruga Castle
敦賀城は天正17年(1589年)頃 大谷吉継が整備、関ヶ原の戦い後に廃城に築かれた中部の名城。城主は大谷吉継 → 徳川幕府(福井藩管轄)(Ōtani Yoshitsugu → Tokugawa Shogunate (Fukui Domain administration))。
概要
敦賀城は福井県敦賀市に位置した平城で、古来「敦賀津」として知られる日本海交易の要港を制する戦略的な要衝に築かれた。敦賀は若狭湾の最奥部に位置し、琵琶湖・近江経由で京都へと直結する「鯖街道」の起点でもあり、室町時代から戦国時代を通じて物流・交通の要として諸勢力が争奪を繰り返した。
城の整備に最も深く関わったのは、豊臣秀吉の腹心・大谷吉継(よしつぐ)である。吉継は天正17年(1589年)に敦賀の領主に任ぜられ、城と城下町の整備を進めた。吉継はハンセン病(当時は業病と呼ばれた)を患っていたとされるが、秀吉の信任厚く「百万の兵を率いる器量」と評された稀代の武将であり、人道的な治政で領民に慕われた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、大谷吉継は当初は東軍(徳川方)への参加を求められたが、義を重んじて西軍(石田三成方)に加担した。吉継は伊吹山麓・関ヶ原の北国街道沿いに陣を構え、小早川秀秋の裏切りによる総崩れの中でも最後まで抵抗し、自刃によって生涯を閉じた。この忠義と武勇の物語は江戸時代を通じて語り継がれ、吉継は「義将」として今日も高く評価されている。
関ヶ原の後、敦賀城は徳川方の支配に入り、やがて廃城となった。現在は城跡の一部が市の史跡として保存されており、城内町の地名にその痕跡が残る。敦賀市内の氣比神宮(けいじんぐう)は越前一宮として古来重んじられ、大谷吉継も崇敬したと伝わる。
刀剣との関わり
敦賀城と日本刀の関係は、城主・大谷吉継の軍歴と交易港・敦賀の双方から語ることができる。 大谷吉継は豊臣政権の軍政に深く携わった武将であり、文禄・慶長の役では船奉行・軍監として朝鮮出兵の船舶調達・兵站を担った。彼が帯刀した刀剣については直接の記録は乏しいが、豊臣家の奉行衆が愛用した刀剣の傾向として、京・畿内の名工(堀川国広・越前康継など)による豪壮な打刀が多く、吉継もそうした時代の名刀を所持していたと考えられる。 越前(福井県嶺北)は越前康継(えちぜんやすつぐ)を筆頭とする刀工の産地として広く知られる。康継は徳川家康・秀忠父子の御用刀工となり「葵紋下賜」の栄誉を受けた刀工であるが、もともとは越前で腕を磨いた刀工が徳川の庇護を得て発展したものである。敦賀は越前と若狭の境界に位置し、越前康継ゆかりの刀工圏の西端に当たる。 敦賀の交易港としての機能は刀剣流通においても重要だった。大陸から輸入される「南蛮鉄(なんばんてつ)」は日本海航路を経て敦賀に揚陸され、越前・若狭の刀鍛冶に供給された記録がある。この大陸産の鋼は国産の玉鋼とは異なる特性を持ち、戦国末期の刀工たちがその性質を研究して鍛造技術の幅を広げた。敦賀城は、日本刀を支えた材料の流通拠点として、また義将・大谷吉継ゆかりの城として、刀剣史に名を連ねる城郭である。
見どころ
- 敦賀城跡(市指定史跡) — 大谷吉継ゆかりの平城跡、城内町に石垣の一部が残存
- 氣比神宮(越前一宮) — 古代より敦賀を守護する大社、大谷吉継が崇敬した縁
- 金ヶ崎城・金ヶ崎宮 — 信長の「金ヶ崎の退き口」の舞台、敦賀湾を望む国史跡
- 越前康継ゆかりの越前刀剣圏 — 徳川御用刀工・康継の産地、敦賀が西端を担う
- 南蛮鉄揚陸地・敦賀港 — 大陸産鉄を刀鍛冶に供給した日本海交易の要港
- 鯖街道起点 — 敦賀から京都まで続く若狭街道、物流と刀剣流通の動脈
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。