※画像はイメージです。二俣城
Futamata Castle
二俣城は永禄年間(1558〜70年)頃に徳川氏が整備。元亀3年(1572年)武田信玄の西上作戦で落城。天正7年(1579年)徳川信康切腹の地に築かれた中部の名城。城主は徳川氏(最初期) → 武田信玄 → 武田勝頼 → 徳川家康(信康切腹の地) → 堀尾吉晴(Tokugawa clan (early) → Takeda Shingen → Takeda Katsuyori → Tokugawa Ieyasu (site of Nobuyasu's suicide) → Horio Yoshiharu)。
概要
二俣城は静岡県浜松市天竜区に位置する山城で、天竜川の断崖上に築かれた要害である。戦国期において遠江国(静岡県西部)の支配の要衝として武田・徳川の間で激しく争われたが、特に「徳川信康の切腹(天正7年・1579年)」の舞台として日本史上最も悲痛な武将の末路のひとつを刻む城として知られる。
元亀3年(1572年)、武田信玄の「西上作戦」——「信長・家康を討つ」という野望を持って甲斐を発し、遠江・三河を縦断した大規模な西進——において、二俣城は武田軍の天竜川水攻め(水の手攻め)による工作で井戸の木組みを破壊されて水源を絶たれ、降伏を余儀なくされた。信玄はその後三方ヶ原の戦いで家康を大敗させたが(元亀3年12月)、天正元年(1573年)4月に陣中で没したため西上作戦は頓挫した。
その後、二俣城は奪回・再落城を経て徳川方の支配下に戻ったが、天正7年(1579年)に最も痛ましい事件の舞台となった。家康の嫡男・徳川信康(のぶやす)が、信長の怒りを買った(または家康自身による政治的判断)として、この二俣城で切腹を命じられた。信康は21歳の若さで生涯を閉じた。信康切腹の原因については諸説あるが、「信長の命令」「家康の政治的決断」の双方が絡んだとされ、家康が最も忍耐を強いられた悲劇として江戸時代以来語り継がれてきた。
廃城後、二俣城は江戸初期に廃城となり、堀尾吉晴が天竜区の浜松城代として入城後に廃されたとされる。現在は国の史跡として整備されており、天竜川沿いの断崖上に石垣・土塁が残る。
刀剣との関わり
二俣城と日本刀の関係は、徳川信康の切腹という事件を通じて「日本刀と武士の死」というテーマに最も直接的に向き合う城跡のひとつとして理解できる。 徳川信康の切腹においては、介錯(かいしゃく)——切腹する人の首を短刀の苦しみから解放するために介添えが太刀で斬る行為——が問題となった。信康の介錯人については諸説あるが、服部半蔵(はっとりはんぞう)が命じられた際に「主君の子を斬れず」として泣き崩れたという伝承が有名であり、この逸話は日本における「武士の刀剣倫理」「忠義と命令の葛藤」を最も鋭く示す場面として語り継がれる。実際の介錯は別の武将が行ったとされるが、この場面は歌舞伎・小説・映像作品で繰り返し描かれてきた。 二俣城を舞台とした武田信玄の「水の手攻め(天竜川水攻め)」は、日本刀の直接的な使用ではなく工兵的な工作による城攻めであったが、天竜川沿いの遠江は「遠州鍛冶(えんしゅうかじ)」として知られる刀工の産地でもあった。遠江の鍛冶師は「遠州相良」「二俣」などを拠点に活動し、徳川家康の武力基盤を支えた。 また武田信玄の刀剣愛好については、「信玄所用」と伝わる数点の刀剣が甲府市周辺の神社・博物館に所蔵されており、信玄が二俣城攻略に使用した兵力の刀剣供給源としての甲斐・信濃の鍛冶圏との連動が指摘される。二俣城は徳川・武田という戦国東海最大の対立軸において刀剣が果たした役割——実戦の武器から、信康切腹という最も繊細な局面での儀礼的道具まで——を語る上で欠かせない城跡である。
見どころ
- 二俣城石垣・土塁(国史跡) — 天竜川断崖上に残る石垣と郭の遺構
- 天守台(本丸) — 断崖の上から天竜川の渓谷を一望する絶景
- 徳川信康公之碑 — 城跡に建立された信康の供養碑、悲劇の史実を伝える
- 鳥羽山城跡(向かいの丘) — 徳川家康が二俣城攻略のために築いた付城遺構
- 天竜川ラフティング — 信玄の水攻め作戦の舞台、激流として知られる天竜川の自然体験
- 光明院(信康の墓) — 二俣城下に位置する信康の菩提寺
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。