※画像はイメージです。那古野城
Naguya Castle
那古野城は大永年間(1521年頃)今川氏親が築城、天文7年(1538年)織田信秀が奪取に築かれた中部の名城。城主は今川氏親 / 織田信秀 / 織田信長(Imagawa Ujichika / Oda Nobuhide / Oda Nobunaga)。
概要
那古野城(なごやじょう)は、現在の名古屋城二の丸がある場所に存在した中世の城郭であり、名古屋の地名の起源にも深く関わる歴史的地点である。現在「名古屋城」と呼ばれる城は江戸時代初期に徳川家康が築いたものであり、那古野城はその200年近く前に存在した別の城である。
城の起源は室町時代後期の大永年間(1521年頃)とされ、今川氏親(駿河今川家当主)が尾張南部への勢力拡大を図って築いたとされる。「那古野」の地名はこの城に由来し、後に「名古屋」と変化したとされているが、その語源については諸説あり、学術的には定説がない。
天文7年(1538年)、尾張の戦国大名・織田信秀がこの城を今川氏から奪取し、尾張支配の拠点とした。信秀は熱田神宮の奉行職も兼ね、東海の商業と交通の要衝である熱田を掌握することで経済的な基盤を固めた武将である。その子として天文3年(1534年)に那古野城内で生まれたのが、後の天下人・織田信長である。信長は幼少期をこの城で過ごし、その後尾張統一、上洛、天下布武へと歩を進めた。
信長が清洲城に本拠を移した後、那古野城は徐々に機能を失い、安土桃山時代には廃城となったとみられる。慶長15年(1610年)、徳川家康が新たに名古屋城を築く際、那古野城の石材や材木の一部が転用されたとも伝わる。
現在、那古野城の遺構はほぼ確認できないが、名古屋城の二の丸一帯がその城域にあたるとされており、名古屋の地名の発祥地として歴史的な意義を持つ。名古屋市内には那古野城ゆかりの史跡・石碑が散在しており、郷土史家や城郭研究者の間で今も研究が続けられている。
那古野城が持つ最大の歴史的意義は、織田信長の生誕地であるという点に尽きる。天下統一の礎を築いた信長が幼年時代を過ごした地として、日本史の中で特別な位置を占めるとともに、「名古屋」という地名の誕生を語る上でも欠かせない存在である。
刀剣との関わり
那古野城と刀剣の関係は、城の主・織田信秀、そして信長の刀剣観に始まる。信秀は熱田神宮の奉行として、古来より刀剣の守護を掌ってきた熱田神宮の財産管理にも携わった。熱田神宮には草薙剣(天叢雲剣)が御神体として祀られており、剣と信仰の聖地であるこの地を掌握したことは、信秀の刀剣文化への深い接点を示している。 信長は後に「天下布武」の旗印のもと、優れた刀工や刀剣を積極的に収集・保護した。「へし切長谷部」(黒田家伝来、国宝、福岡市博物館蔵)や「薬研藤四郎」(現在は廃失、逸話のみ伝わる)など、信長ゆかりの名刀は数多く、那古野城で生まれたこの武将の刀剣への執着は日本の刀剣文化史に深く刻まれている。 また、尾張は「尾張物(おわりもの)」と呼ばれる刀剣産地であり、室町後期から江戸初期にかけて多くの刀工が活躍した地域でもある。信長の尾張統一後、那古野周辺の刀工も織田家の庇護のもと繁栄したとされ、地域の刀剣文化の発展に貢献した。
見どころ
- 織田信長の生誕地 — 天下人・信長が1534年に産声を上げた歴史の聖地
- 「名古屋」地名の発祥地 — 那古野城の名が転じて「名古屋」になったとされる
- 今川・織田の攻防の舞台 — 戦国初期の尾張をめぐる勢力争いの中心
- 熱田神宮との縁 — 草薙剣を祀る熱田を掌握した信秀・信長親子の拠点
- 名古屋城二の丸との重複 — 現・名古屋城の前身として城域が継承された
- 那古野城址碑 — 名古屋城内に設置された史跡碑で往時を偲ぶことができる
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。