※画像はイメージです。松代城(海津城)
Matsushiro Castle (Kaizu Castle)
松代城(海津城)は永禄3年(1560年)頃、武田信玄が川中島の戦いの拠点として築城(海津城)。関ヶ原後の元和8年(1622年)に真田信之が入城し、正徳元年(1711年)に「松代城」と改称、真田氏10代の居城となったに築かれた中部の名城。城主は武田信玄(築城)→ 上杉景勝(一時占領)→ 真田信之(初代松代藩主)→ 真田氏(10代続く)(Takeda Shingen (founder) → Uesugi Kagekatsu (temporary occupation) → Sanada Nobuyuki (first Matsushiro daimyo) → Sanada clan (10 successive generations))。
概要
松代城(まつしろじょう)は長野県長野市松代町に位置する平城で、武田信玄が川中島の戦い(1553〜64年)の拠点として築いた「海津城(かいづじょう)」を前身とする。千曲川(ちくまがわ)の氾濫原を利用した水城であり、北に犀川・南に千曲川を控える天然の要害に築かれた。
川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信が5度にわたって信濃北部(長野盆地周辺)で激突した戦国最大の消耗戦として名高い。海津城はこの川中島の戦いにおける武田方の最前線基地であり、特に第4次川中島の戦い(永禄4年・1561年)の直前には、謙信が海津城の炊煙の異変から武田軍の動きを察知し夜中に千曲川を渡河したとされる「啄木鳥(キツツキ)戦法」の舞台として知られる。
天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、海津城は織田・上杉の争奪を経て、関ヶ原の戦い後に上田を与えられた真田信之は、元和8年(1622年)に松代へ加増移封された。信之は城を整備して居城とし(「松代城」への改名は後の正徳元年・1711年の幕命による)、以降10代にわたる真田氏の居城となった。松代藩真田家は10万石の外様大名として江戸時代を通じて安定的に続き、真田信之自身は93歳まで長命を保った。
明治になって廃城・廃藩となったが、城跡は国の史跡として整備されており、石垣・堀・木橋が復元されている。隣接する真田邸(旧真田宝物館)には真田氏ゆかりの甲冑・刀剣・茶道具が豊富に収蔵されており、武家文化の総体を体感できる城跡として整備が進んでいる。
刀剣との関わり
松代城(海津城)と日本刀の関係は、川中島の戦いという戦国最大の武将対決と、真田氏という日本で最も広く親しまれる武家の双方に連なる。 川中島の戦いは武田信玄・上杉謙信という二大名将の激突として語り継がれるが、この戦いで活躍した将兵たちは当時の最高水準の刀剣を携えていた。武田軍の刀剣供給は甲斐・信濃の鍛冶師が担い、「甲斐物(かいもの)」として知られる地元産刀剣と、備前・相州から調達した高級品が混在していた。上杉謙信の愛刀として知られる「山鳥毛(さんちょうもう)」——現在岡山県瀬戸内市に所蔵される国宝備前刀——は謙信の刀剣審美眼を象徴する一振りであり、川中島の地と備前刀工圏の結びつきを示す。 真田信之は茶の湯・刀剣に深い造詣を持つ文化人武将でもあり、真田家歴代が蒐集した刀剣は「真田宝物館」(松代)に現存する。特に真田昌幸・信繁(幸村)・信之の三代にわたる刀剣コレクションは、戦国末期から江戸初期にかけての優品を多数含み、信繁(幸村)ゆかりとされる刀剣は真田神社・大坂城公園周辺の施設等にも伝わる。 海津城を築いた武田信玄の刀剣愛好については、「信玄公所用」と伝わる太刀・脇差が甲府・武田神社等に現存する。
見どころ
- 松代城跡(国史跡) — 復元木橋・石垣・水堀、武田→真田の歴代城郭変遷を体感
- 真田邸(旧真田宝物館) — 真田家の甲冑・刀剣・茶道具を収蔵する宝物館
- 真田神社(本丸跡) — 真田氏歴代を祀る、真田の六文銭の旗印が翻る
- 文武学校(藩校) — 真田松代藩の藩校建築が現存、武道稽古場・文学所が保存
- 川中島古戦場(八幡原史跡公園) — 第4次川中島の戦いの主戦場、信玄・謙信の一騎打ち像
- 象山地下壕 — 太平洋戦争末期に松代大本営として掘削された地下壕遺構
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。