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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
97件のイベント
1587年1月20日(天正14年12月12日)
天正14年(1586年)12月、豊臣秀吉の九州征伐の先鋒を務めた仙石秀久・長宗我部信親らが、豊後国戸次川(現・大分市)で島津軍と戦い大敗した。長宗我部元親の嫡男・信親が戦死し、四国一の猛将の死が元親と長宗我部家に深刻な打撃を与えた合戦。
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1585年11月17日(天正13年10月8日)
天正13年(1585年)11月、奥州の雄・伊達政宗が、佐竹・蘆名・二階堂・白河連合軍と陸奥国の人取橋(現・福島県本宮市)で激突した。数倍の敵に包囲されながら奮戦した17歳の政宗は、辛くも敗退を避けた。東北戦国史の一大転換点となった合戦。
1585-07-25
天正13年(1585年)7月、羽柴秀吉が約10万の大軍を四国に送り込み、四国を統一した長宗我部元親を降伏させた。元親は土佐一国のみの安堵にとどまり、秀吉の天下統一が一歩進んだ。四国攻めは紀州攻め直後に行われた秀吉の西国平定の集大成の一つである。
1585-07-11
天正13年(1585年)7月11日、豊臣秀吉は関白に就任し、武家として初めて最高の朝廷官職に登り詰めた。翌年の九州平定、天正18年の小田原攻め・奥州仕置を経て天下統一を完成。天正16年(1588年)の刀狩令により武士以外の帯刀を禁じ、兵農分離政策を完成させることで日本刀の「武士の専有物」としての地位を法的に確定した。
1584年3月24日(天正12年3月24日)
天正12年(1584年)3月、九州の覇権をかけた龍造寺隆信と島津・有馬連合軍の決戦。肥前国沖田畷(現・長崎県島原市)で、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信が奇策を用いた島津軍に討ち取られた。九州戦国史の転換点となった合戦。
1584年3月〜11月(天正12年)
天正12年(1584年)、本能寺の変後の後継者争いをめぐり、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が激突した合戦。長久手において家康軍が秀吉方の池田恒興・森長可らを討ち取る局地的大勝を収めたが、軍事的決着はつかず、政治交渉で秀吉が優位を確立した。
1583年4月21日(天正11年4月20日)
天正11年(1583年)4月、近江国賤ヶ岳(現・滋賀県長浜市)周辺で繰り広げられた羽柴秀吉と柴田勝家の覇権争い。本能寺の変後の「織田家後継者」をめぐる武将間の権力闘争であり、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる七人の猛将の活躍で知られる。
1582年6月21日(天正10年6月2日)
天正10年(1582年)6月2日未明、天下統一目前の織田信長が京都・本能寺において家臣・明智光秀の謀反により討たれた。日本史上最大の謀叛として、後世に深く刻まれた事件。
1582-06-21
天正10年(1582年)6月、本能寺の変直後に徳川家康が堺から伊賀・甲賀を経て三河岡崎城へ脱出した逃避行。服部半蔵らに護衛された命がけの旅は、後の天下統一への布石となった徳川家の建国神話である。
1581年(天正9年)6月〜10月
天正9年(1581年)、羽柴秀吉が鳥取城を包囲し、兵糧攻めによって城兵・城下民を極限の飢餓状態に追い込んで落城させた兵糧攻め(渇え殺し)。秀吉の天才的な作戦立案と、城将・吉川経家の悲劇的な死が織り成す戦国最大の苛烈な籠城戦のひとつ。城内では人肉食まで起きたとされる凄惨な籠城の末、吉川経家は自刃して城兵の助命を実現した。
1581-09
天正9年(1581年)9月、織田信長は次男・信雄(のぶかつ)を総大将に任じ、4万を超える大軍で伊賀国に侵攻した。二年前の第一次侵攻の失敗(天正7年)の雪辱を果たすべく、信長自ら作戦を指揮した「第二次天正伊賀の乱」である。忍びの里として知られる伊賀は組織的な抵抗を試みたが、圧倒的兵力差の前に数日で壊滅した。この戦いは、武士の刀剣文化と忍者の暗器・短刀文化が正面から衝突した珍しい歴史事例である。
1579-06-01
天正7年(1579年)6月、明智光秀が数年に及ぶ丹波攻略を完成させ、難攻不落の八上城(現・兵庫県丹波篠山市)を落城させた。城主・波多野秀治・秀尚兄弟は信長の命により処刑され、丹波国全域が光秀の支配下に入った。光秀の丹波統治は後の本能寺の変にまつわる伝説とも深く結びついている。
1578年11月12日(天正6年11月11日)
天正6年(1578年)11月、日向国(現・宮崎県)で島津義久率いる島津軍が大友宗麟の大軍を撃破した合戦。決戦地の名から「高城川の戦い」とも呼ばれる。島津の「釣り野伏せ」の前に大友軍は壊滅し、敗走中に耳川で多数が溺死した。「九州三国志」の大きな転換点となり、大友氏の衰退と島津氏の九州制覇への道が開かれた。
1577-09-01
天正4年(1576年)秋〜天正5年(1577年)9月、上杉謙信が能登国の拠点・七尾城(現・石川県七尾市)を包囲・攻略した攻城戦。謙信は一年近い長期包囲の末、城内の疫病流行と内通者の裏切りによって七尾城を陥落させ、能登国をほぼ平定した。七尾城陥落の報は謙信が手取川の戦いで織田信長の軍勢を破る直前のことであり、謙信の北陸制覇の頂点を示す戦いである。
1575年5月21日(天正3年5月21日)
天正3年(1575年)5月21日、三河国長篠(現・愛知県新城市)において、織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を大敗させた合戦。信長が組織的な鉄砲三段撃ちを用いたとされ、戦国合戦の戦術革命をもたらした「火縄銃の時代」の象徴的戦い。
1573-08-17
天正元年(1573年)8月、織田信長の猛追により朝倉義景は居城・一乗谷城を捨てて逃亡。百年の栄華を誇った朝倉氏はわずか数日で滅亡し、越前の刀剣文化も大きな打撃を受けた。
1573-01-01
元亀3年(1572年)12月〜元亀4年(1573年)2月、武田信玄が徳川家康の支城・野田城(現・愛知県新城市)を包囲・攻略した合戦。信玄は三方ヶ原の戦いで家康を大敗させた後、野田城を攻め落としたが、この攻城中に信玄は銃弾を受けたとも落城直後に病が悪化したとも伝えられ、その後甲斐への帰途に死去した。野田城の戦いは信玄の西上作戦の最終局面であり、信玄最後の合戦として歴史に刻まれる。
1572年12月22日(元亀3年12月22日)
元亀3年(1572年)12月、武田信玄率いる武田軍が遠江・三方ヶ原で徳川家康軍を大破した合戦。信玄の生涯最後の遠征であり、家康が生涯最大の敗北を喫した戦い。「しかみ像」に代表される家康の屈辱と、信玄の戦略的天才が語り継がれる。
1570-09-16
元亀元年(1570年)9月〜12月、浅井・朝倉連合軍と比叡山延暦寺が結託して信長を包囲した志賀の陣。信長は朝廷の仲介による屈辱的な和議を余儀なくされたが、翌年の比叡山焼き討ちへの決意を固めた転換点となった。
1570-08-20
元亀元年(1570年)8月、大友宗麟の大軍が龍造寺隆信の本拠・佐嘉城を包囲した今山合戦において、龍造寺家の重臣・鍋島信生(後の直茂)が夜襲を敢行し、大友軍総大将・大友親貞を討ち取った。この勝利により龍造寺氏は肥前制覇への道を開き、九州戦国史の転換点となった。
1567-09-01
永禄10年(1567年)8月、織田信長が美濃国の斎藤龍興から稲葉山城(現・岐阜城)を奪取した攻城戦。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の内応工作と精鋭による奇襲が功を奏し、信長は念願の美濃制覇を成し遂げた。信長はこの城を「岐阜城」と改め、天下布武の号令の地として天下統一の拠点に据えた。
1564-02-06
永禄7年(1564年)2月、竹中重治(半兵衛)はわずか16人の手勢で難攻不落の稲葉山城を奪取した。暗君・斎藤龍興を諌めるための義憤から生まれた奇策は、半兵衛の天才的な軍略家としての名声を後世に伝える伝説となった。
1560年6月12日(永禄3年5月19日)
永禄3年(1560年)5月19日、尾張の小大名・織田信長が、今川義元率いる大軍に奇襲をかけ、義元を討ち取った。兵力差を覆した歴史的奇跡の戦いは、信長の天下への第一歩となった。
1555年10月1日(天文24年9月30日)
天文24年(1555年)10月、安芸の毛利元就が瀬戸内海の聖地・厳島に陶晴賢の大軍を誘い込み、奇策と水軍を駆使してわずかな兵力で撃破した合戦。「三矢の訓え」で知られる元就が中国地方の覇者への道を確立した戦略的大勝利である。