※画像はイメージです。太田城(舞鶴城)
Ota Castle (Maizuru Castle, Hitachi Province)
太田城(舞鶴城)は平安時代(伝天仁2年〈1109年〉築城)、関ヶ原の戦い後の慶長7年〈1602年〉佐竹氏秋田移封に伴い廃城に築かれた関東の名城。城主は藤原通延(築城伝承)、佐竹氏歴代(2代隆義以降、天正18年〈1590年〉水戸城移転まで本拠)(Fujiwara Michinobu (traditional founder); successive generations of the Satake clan (from the 2nd head, Takayoshi, until the move to Mito Castle in 1590))。
概要
築城
太田城は、伝承によれば天仁2年(1109年)、藤原秀郷の四世孫にあたる藤原通延が下野国から常陸国太田郷に入り、太田大夫と称して築いたのが始まりとされる。別名「舞鶴城」「佐竹城」「青龍城」。
城主の変遷
後三年の役で功を挙げた源義光の孫・源昌義が常陸国内に所領を得て佐竹氏を称し、久安年間(1145年~1151年)頃、佐竹氏2代・隆義が太田城主小野崎通盛に圧力をかけて城を明け渡させ、以後太田城は佐竹氏の本拠となった。隆義入城の日に城の上空を鶴が舞ったことから「舞鶴城」と呼ばれるようになったと伝わる。以後、佐竹氏は関東有数の戦国大名へと発展し、天正18年(1590年)に佐竹義宣が江戸氏の水戸城を奪って本拠を移すまで、約470年にわたり太田城を居城とした。関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602年)、佐竹氏が常陸54万石から出羽久保田(秋田)18万石へ減転封となったことに伴い、太田城は廃城となった。
構造
本郭は現在の常陸太田市立太田小学校一帯にあったと推定される。城域は内堀町から栄町にかけての広範囲に及んだと伝わるが、明治初期に城地が払い下げられて宅地化が進み、大正末期までは土塁や郭の一部が残っていたとされるものの、現在は市街化によりほとんど遺構が残っていない。
現状
城跡に明確な指定文化財は無いが、若宮八幡宮の境内に「太田故城碑」が建立され、約470年にわたり佐竹氏の本拠であった歴史を伝えている。関東七名城の一つに数えられることもある。見学は太田小学校周辺からの外観確認が中心となる。
刀剣との関わり
見どころ
- 関東の有力戦国大名・佐竹氏が約470年にわたり本拠とした居城
- 佐竹氏3代隆義の入城時に鶴が舞ったことに由来する「舞鶴城」の異名
- 関ヶ原後の佐竹氏秋田移封に伴い廃城、遺構はほぼ消滅
- 若宮八幡宮境内に「太田故城碑」が現存
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。