※画像はイメージです。沼田城
Numata Castle
沼田城は天文元年(1532年)沼田顕泰が築城、天正期に真田昌幸が改修・整備して上州支配の拠点としたに築かれた関東の名城。城主は真田昌幸 → 真田信幸(信之)→ 本多氏 → 土岐氏(Sanada Masayuki → Sanada Nobuyuki (Nobuyuki) → Honda clan → Toki clan)。
概要
沼田城は群馬県沼田市の河岸段丘上に立地する城郭で、利根川と薄根川の合流点に形成された天然の断崖を利用した要害である。城の標高は周囲の平野より約70メートル高く、三方を川の侵食が作り出した絶壁が守る自然の要害として、戦国時代の上野国(群馬県)における最重要の城郭のひとつであった。
沼田城は真田氏との深い縁で知られる。真田昌幸(さなだまさゆき)は信濃(長野県)の小大名でありながら、武田氏滅亡後の混乱期に東国の大国・北条氏と上杉氏の双方と渡り合い、沼田城をその主要拠点の一つとして上野国支配を実現した知将である。昌幸は「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」と豊臣秀吉に評されるほど神出鬼没の外交・軍略で知られ、第一次上田合戦(1585年)・第二次上田合戦(1600年)では、徳川軍の大軍を二度にわたって退けた名将として後世に名を馳せた。
昌幸の子・真田信幸(のちに信之と改名)は、関ヶ原の戦いで父・弟(幸村)と分かれて徳川東軍に属し、戦後も真田家の存続を図って沼田城主として上野国を支配した。幕府の許可を得て五重の天守を築いたとされる沼田城は、沼田藩の藩庁として機能したが、真田氏が改易となった天和元年(1681年)に幕府の命で天守・建造物が取り壊された(その後、元禄16年〔1703年〕に本多氏が入封して城を再興したが天守は再建されなかった)。現在は沼田公園として整備されており、土塁・空堀・石垣の一部が残存する。
刀剣との関わり
沼田城と日本刀の関係は、真田氏という類まれな武将集団の刀剣文化と、上野・信濃という刀剣流通の要衝に位置する地理的条件の両面から語られる。 真田昌幸とその子・信幸・幸村(信繁)という真田父子は、戦国から江戸初期にかけて日本史上最も「刀剣の使い手」として語られてきた武将一族である。特に真田幸村(信繁)は大坂の陣(1615年)における超人的な奮戦と潔い最後によって、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称され、その愛刀についての逸話が数多く伝わる。幸村ゆかりの刀剣は関西の寺社・博物館に散在し、真田の名を冠した刀剣・甲冑は現在も高い関心を集める文物である。 真田昌幸が活動した上野国(群馬県)は、越後(新潟)・信濃(長野)・武蔵(埼玉)・下野(栃木)と隣接する交通の要衝であり、これらの地域を流通する刀剣の中継地点でもあった。特に越後は上杉謙信・景勝が本拠とした地であり、謙信ゆかりの「太刀」「打刀」の名品が上杉家に伝来している。謙信との同盟・対立を繰り返した真田氏は、越後方面の刀剣文化とも交流があったと推測される。 また上野国の鍛冶師については、「上州鍛冶(じょうしゅうかじ)」として知られる地場の刀工集団が存在し、沼田城下でも武士の需要に応じた刀剣の生産・補修が行われた記録がある。真田家の家紋「六文銭」と結びついた刀剣・甲冑は現在も沼田市内の寺社に奉納品として残存しており、真田文化の重要な物証となっている。
見どころ
- 沼田公園(城跡) — 群馬県指定史跡、真田氏整備の土塁・空堀・石垣が現存する城跡公園
- 本丸址・天守台 — 真田信幸が築いたとされる五重天守の礎石、沼田市の象徴
- 河岸段丘の要害地形 — 利根川・薄根川の断崖に守られた天然の要塞地形を体感
- 真田信幸廟(正覚寺) — 真田信之の菩提寺、真田家ゆかりの文物を伝来
- 六文銭の六文銭ゆかりの地 — 真田家「六文銭」家紋が示す冥界三途の川への覚悟、武士道の象徴
- 尾瀬・谷川岳への玄関口 — 自然観光の拠点であると同時に、山岳地帯の砂鉄産地への入口
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。