※画像はイメージです。石垣山城(石垣山一夜城)
Ishigakiyama Castle (Ishigakiyama Ichiyo Castle)
石垣山城(石垣山一夜城)は天正18年(1590年)築城。小田原攻めの際、豊臣秀吉が約80日で築いた総石垣の陣城に築かれた関東の名城。城主は豊臣秀吉(天正18年・1590年の小田原攻め時に構築)(Toyotomi Hideyoshi (constructed during the siege of Odawara in Tenshō 18 / 1590))。
概要
石垣山城(いしがきやまじょう)は神奈川県小田原市早川に所在する戦国末期の陣城(じんじろ)で、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原北条氏を攻略するために築いた総石垣造りの城郭である。別名「石垣山一夜城(いちやじろ)」とも呼ばれ、完成した瞬間に周囲の樹木を一斉に伐採して小田原城内の北条方に突如城が現れたように見せたという逸話から、この名が付いた。
小田原攻めは天正18年3月から開始され、秀吉は総勢20万を超える大軍勢を動員して北条氏の本拠・小田原城を包囲した。秀吉はその一方で、小田原城の西南約3kmの山中、標高約261mの笠懸山(かさかけやま)山頂に陣城を構えることを決意する。工期わずか80日という記録的な短期間で、延べ数万人とも言われる人夫を投入し、関東では初例となる総石垣造りの本格城郭を完成させた。完成時に囲いの木を一斉に除去したところ、忽然と城が現れたように見えたとされ、これが「一夜城」の伝説を生む端緒となった。
城の規模は本丸・二の丸・西曲輪・南曲輪・北曲輪などから構成され、天守台・井戸曲輪・馬屋曲輪なども備えた完結した城郭形式をなしている。使用された石垣は相模(さがみ)産の安山岩を中心に築かれており、野面積み(のづらづみ)による粗削りな石積みながら、戦時の突貫工事としては驚異的な技術力を示している。秀吉はこの城で茶会を催し、千利休・前田利家・徳川家康・伊達政宗ら諸大名を招いて北条氏の降伏を待った。
城内からは相模湾・伊豆半島・真鶴半島・小田原城下を一望できる絶景が広がり、秀吉の天下統一の大舞台としての風格を今に伝える。北条氏が100日に及ぶ籠城の末に開城・降伏した後、石垣山城は廃城となり、以後手が加えられることなく戦国の石垣がほぼ原形を保って現存する。現在は神奈川県立石垣山一夜城歴史公園として整備され、国指定史跡・続日本100名城の一つに数えられている。
刀剣との関わり
石垣山城は豊臣秀吉の天下統一を象徴する城であり、日本刀史における最重要な転換点の一つ、いわゆる「刀狩り(かたながり)」と直接的に結びついている。 天正16年(1588年)、豊臣秀吉は「刀狩令(かたながりれい)」を発布し、農民・僧侶・神官から刀剣・薙刀・弓矢・鉄砲などの武器を没収することを命じた。この政策は武士と農民の身分的分離(兵農分離)を制度化する画期的な政令であり、日本における刀剣所持の特権化・武士階層の独占化を確立した歴史上の転換点として、刀剣史において特筆される。石垣山城の築城(1590年)はその2年後であり、刀狩令から天下統一完成までの秀吉の覇権確立期に位置する。 また石垣山城における茶会には、茶道具と並んで名刀の鑑賞・披露が行われたと考えられる。秀吉は熱心な名刀収集家として知られ、「享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)」に登録された多くの名刀が秀吉の手に渡った記録がある。特に「へし切長谷部(へしきりはせべ)」(黒田如水が秀吉から拝領した山城の刀工・長谷部国重作の刀)は秀吉ゆかりの名刀として著名であり、秀吉が主催した茶会・接見の場では名刀の贈答・拝領が繰り返された。石垣山城での諸大名との会見もその文脈に位置づけられる。 さらに小田原攻めの結果として関東・東北の大名配置が一新され、徳川家康の関東入部(小田原開城と同年)が実現した。この後の江戸時代に刀剣の鑑定・格付け文化が体系化され、江戸鑑定家・本阿弥家の体制のもとで刀剣文化が開花したことを考えると、石垣山城は日本刀文化の「近世的転換点」を象徴する場所ともいえる。
見どころ
- 天守台石垣 — 関東初の総石垣城郭の面影を今に伝える野面積みの石垣
- 二の丸跡 — 秀吉が諸大名を集めて茶会を催した歴史の場、相模湾の絶景
- 井戸曲輪 — 80日間の突貫工事を支えた城内水源、石垣が良好に残存
- 展望スポット — 相模湾・伊豆半島・小田原市街地・富士山を望む360度パノラマ
- 神奈川県立石垣山一夜城歴史公園 — 散策路・解説板が整備された国指定史跡
- 小田原城(車で約10分) — 北条氏の本城、石垣山城と対となる歴史巡り
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。