※画像はイメージです。岩槻城
Iwatsuki Castle
岩槻城は戦国時代〜江戸時代(1457年頃〜1871年廃城)に築かれた関東の名城。城主は太田資正・資頼、北条氏、徳川氏系歴代藩主(Ōta Suketada and Suketoki, the Hōjō clan, and successive daimyo of the Tokugawa house)。
概要
岩槻城は武蔵国足立郡(現埼玉県さいたま市岩槻区)に築かれた平山城で、関東平野の低湿地帯という地形を最大限に活用した水城の傑作である。城の創築については諸説あり、享徳3年(1454年)に始まった享徳の乱の混乱期に扇谷上杉氏の太田資清・道灌父子が築いたとする説が有力だが、一説には古河公方足利成氏の関係者による築城とも伝わる。いずれにせよ1450年代後半から1460年代にかけて基礎が固められたとみられる。太田資正(1522〜1591年)の時代に最も栄え、武蔵国における反北条氏勢力の中心拠点として機能した。資正は上杉謙信と連携しながら後北条氏と対抗し、関東における三つ巴の政治・軍事情勢をくぐり抜けた。永禄7年(1564年)、資正は嫡男・氏資に城主の座を追われ、松山城(現吉見町)に移った後も反北条活動を続けた。北条氏の最盛期には城が後北条氏の勢力圏内に収まることもあったが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐後、岩槻城は関東に入国した徳川家康の家臣・高力清長が入城し、関東支配の拠点の一つとなった。同年の徳川家康の関東入国後は、高力清長を初代として譜代大名が相次いで城主となり、岩槻藩が成立した。江戸時代を通じて岩槻は江戸の北方防衛の要城として位置づけられ、岩槻藩主には老中・若年寄など幕閣要職に就く大名が多かった。特に17世紀後半から幕末にかけては、高力氏・青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・松平氏・小笠原氏・永井氏・大岡氏が藩主を務め、岩槻藩は10万石規模の重要拠点として幕政に貢献した。城郭は水堀と沼地を組み合わせた複合的な防衛システムを持ち、本丸・二の丸・三の丸が水濠で囲まれた典型的な平城の形態をとる。特に岩槻周辺に広がる見沼(現在の見沼代用水周辺)は天然の堀として機能し、外敵の接近を困難にした。明治4年(1871年)の廃藩置県に伴い廃城となり、城内建築物の多くは解体・移築された。現在は岩槻城址公園として整備され、土塁・空堀・水堀が部分的に残る。また旧城内から移築された「裏門」(岩槻城の遺構として現存する貴重な建築)が市内に保存されている。岩槻は江戸時代から「人形の町」として名高く、江戸向けの雛人形・五月人形の一大産地として発展した。刀剣との関連では、太田氏が抱えた武蔵鍛冶の影響が大きく、城下の鍛冶師が太刀・打刀の製作に従事した記録がある。また岩槻藩主が江戸城の儀礼に際して名刀を佩用する機会が多く、藩内での刀剣蒐集・鑑定文化が根付いていた。
刀剣との関わり
太田資正は武略に優れた戦国大名として刀剣の実用性を重んじ、武蔵鍛冶の保護・育成に力を注いだ。岩槻城下の鍛冶師は武蔵国に多かった「武蔵鍛冶」の系譜に連なり、打刀・脇差を中心に実戦刀を生産した。江戸時代には岩槻藩主が幕府の儀礼に参加する機会が多く、藩主レベルでの名刀蒐集・鑑賞文化が形成された。また岩槻は江戸への物資供給路として繁栄したため、刀剣商人・研師・柄巻師など刀剣に関わる職人が多く居住した。
見どころ
- 水堀と沼地を活かした関東屈指の水城
- 太田資正による反北条の拠点
- 江戸時代の北方防衛の要城
- 人形の町・岩槻の歴史的背景
- 武蔵鍛冶との深い縁
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。