※画像はイメージです。岩櫃城
Iwabitsu Castle
岩櫃城は鎌倉・南北朝期以来の山城。永禄6年(1563年)真田幸隆が武田信玄の命で攻略。以降真田氏の上野国(群馬)支配の最重要拠点となったに築かれた関東の名城。城主は斎藤憲広(上杉方)→ 武田信玄(攻略)→ 真田幸隆・昌幸(真田氏の上州支配拠点)(Saitō Norihiro (Uesugi side) → Takeda Shingen (captured) → Sanada Yukitaka / Masayuki (Sanada Ueno Province base))。
概要
岩櫃城(いわびつじょう)は群馬県吾妻郡東吾妻町に位置する山城で、標高802mの岩櫃山(いわびつやま)の急峻な岩峰地形を最大限に活用した難攻不落の要害として知られる。「武田三堅城(たけださんけんじょう)」のひとつに数えられ、甲斐の岩殿城・駿河の久能城・上野の岩櫃城がこれに当たる。
城の歴史は鎌倉・南北朝期まで遡るが、戦国期に真田氏の支配下に入って最盛期を迎えた。永禄6年(1563年)、武田信玄は真田幸隆(さなだゆきたか)——後に「攻め弾正(せめだんじょう)」と称された謀略の名人——に命じて岩櫃城を攻略させた。幸隆は正面攻撃ではなく「篭絡・内応(ろうらく・ないおう)」——城内の武将を寝返らせる謀略——によって落城させたとされ、真田氏の智謀を示す最初の大事業として伝わる。
真田昌幸の代になると、岩櫃城は上野国(こうずけのくに・群馬)における真田氏支配の最重要拠点となった。天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、昌幸は岩櫃城を真田氏独立の砦とし、織田・北条・徳川・上杉という四方の大勢力に囲まれながら「表裏比興(ひょうりひきょう)」の外交——都合によって主君を変える柔軟な生存戦略——で真田氏を守り抜いた。
岩櫃城は沼田城の支城として、真田家の重臣・出浦対馬守が城代を務めたと伝わる。岩櫃城は大河ドラマ「真田丸」(2016年)において幸村が最初に政治的に成熟する舞台として描かれ、「真田の城」として全国的な知名度を獲得した。
刀剣との関わり
岩櫃城と日本刀の関係は、真田氏という「日本刀文化の象徴的な武将の一族」との結びつきに尽きる。 真田幸村(信繁)は現代の日本で「最強の武将」「最高の武士」として最も広く親しまれる戦国武将であり、その象徴として刀剣・甲冑の人気においても群を抜く。幸村ゆかりの赤具足(あかぐそく)——真紅に塗られた甲冑——とその刀剣は、真田神社(長野県上田市)・大阪城天守閣など各地に伝来し、いずれも「真田幸村所用」として高い観光・文化的価値を持つ。岩櫃城は幸村が最初に「武将」として記録に現れる場所であり、幸村の刀剣世界への入口として位置づけられる。 真田昌幸は戦略家・外交家としての顔と並び、刀剣鑑賞にも造詣が深かったとされる。真田宝物館(松代)が所蔵する真田家刀剣の中には昌幸ゆかりとされる作品も含まれており、岩櫃城と松代城(海津城)という真田氏の二大拠点が「真田の刀剣」を語る二つの核として機能する。 岩櫃城が位置する吾妻地方は、上野国(群馬県)における鍛冶文化の一拠点でもあった。上野の刀工は「上州物(じょうしゅうもの)」として知られ、主に太刀・脇差を生産して関東・信濃の武士層に供給した。真田昌幸が率いた上野の軍勢は、これら地元産の刀剣と相州・備前からの高品質刀剣を組み合わせた武装を持っていたと考えられる。
見どころ
- 岩櫃山(標高802m) — 城跡背後に屹立する絶壁の岩峰、武田三堅城の自然要害
- 本丸跡・二の丸跡 — 郭跡・土塁・空堀が急峻な山中に残存する国指定候補遺構
- 岩櫃城温泉くつろぎの館 — 城跡近隣の温泉施設、真田ゆかりの地の観光拠点
- 真田氏本城跡(上田市) — 真田昌幸が築いた上田城の前身城跡、岩櫃城との真田二大拠点
- 草津温泉 — 岩櫃城から車で約45分の日本有数の温泉地、吾妻地域の観光と組み合わせ
- 原町(東吾妻町)の真田展示 — 「真田丸」放映以降整備された真田コンテンツ、城下町散策
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。