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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
107件のイベント
1570-09-16
元亀元年(1570年)9月〜12月、浅井・朝倉連合軍と比叡山延暦寺が結託して信長を包囲した志賀の陣。信長は朝廷の仲介による屈辱的な和議を余儀なくされたが、翌年の比叡山焼き討ちへの決意を固めた転換点となった。
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1570-08-20
元亀元年(1570年)8月、大友宗麟の大軍が龍造寺隆信の本拠・佐嘉城を包囲した今山合戦において、龍造寺家の重臣・鍋島信生(後の直茂)が夜襲を敢行し、大友軍総大将・大友親貞を討ち取った。この勝利により龍造寺氏は肥前制覇への道を開き、九州戦国史の転換点となった。
1569-01-05
永禄12年(1569年)1月、三好三人衆が京都本圀寺の足利義昭を襲撃した政変。明智光秀ら籠城衆の防戦と畿内諸将の急行救援により撃退され、織田信長による殿中御掟制定と二条新御所築造の契機となった。
1567-09-01
永禄10年(1567年)8月、織田信長が美濃国の斎藤龍興から稲葉山城(現・岐阜城)を奪取した攻城戦。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の内応工作と精鋭による奇襲が功を奏し、信長は念願の美濃制覇を成し遂げた。信長はこの城を「岐阜城」と改め、天下布武の号令の地として天下統一の拠点に据えた。
1565年10月15日
永禄8年(1565年)、武田信玄の嫡男・義信が謀反の企てに連座して東光寺に幽閉され、傅役の飯富虎昌が自刃した事件。桶狭間後の今川家との関係の変化と、信玄の外交路線の転換が背景にあったとされ、義信は2年後に没した。
1564-02-06
永禄7年(1564年)2月、竹中重治(半兵衛)はわずか16人の手勢で難攻不落の稲葉山城を奪取した。暗君・斎藤龍興を諌めるための義憤から生まれた奇策は、半兵衛の天才的な軍略家としての名声を後世に伝える伝説となった。
1561年03月13日
永禄4年(1561年)3月、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東の諸将を率いて北条氏康の本拠・小田原城を包囲したが、氏康は籠城し、城は落ちなかった。景虎は帰途に鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉憲政から関東管領職と上杉の名跡を継承し、上杉政虎を称したとされる。武力による城攻めの成否よりも、権威の継承儀礼が後世に大きな意味を持った出来事である。
1560年6月12日(永禄3年5月19日)
永禄3年(1560年)5月19日、尾張の小大名・織田信長が、今川義元率いる大軍に奇襲をかけ、義元を討ち取った。兵力差を覆した歴史的奇跡の戦いは、信長の天下への第一歩となった。
1555年10月1日(天文24年9月30日)
天文24年(1555年)10月、安芸の毛利元就が瀬戸内海の聖地・厳島に陶晴賢の大軍を誘い込み、奇策と水軍を駆使してわずかな兵力で撃破した合戦。「三矢の訓え」で知られる元就が中国地方の覇者への道を確立した戦略的大勝利である。
1553〜1564年(天文22〜永禄7年)、第四次:1561年10月(永禄4年9月)
天文22年〜永禄7年(1553〜1564年)にかけて、信濃国川中島周辺で繰り広げられた武田信玄と上杉謙信の五度にわたる合戦。とくに永禄4年(1561年)の第四次合戦は両将が一騎打ちに及んだとも伝えられ、戦国最大の激戦として名高い。
1547年09月22日
天文16年(1547年)9月22日、尾張の織田信秀が美濃へ侵攻して稲葉山城下を焼いたが、斎藤道三の反撃を加納口で受けて大敗したとされる戦い。この後に織田・斎藤両家は和睦し、信秀の嫡男・信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)の婚姻が成ったと伝えられる。合戦の年は天文13年(1544年)説や複数回の衝突説もあり、通説として天文16年を採る。