
新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
天文19年9月9日〜10月1日(1550年)
信濃国小県郡砥石城(現・長野県上田市)
勢力
武田軍
村上軍
約6分で読めます
甲斐国の戦国大名・武田晴信(後の信玄)は、父・信虎を駿河へ追放して家督を継いだ天文10年(1541年)以降、信濃国への侵攻を着実に進めていた。諏訪・伊那・佐久の各方面を順次平定した晴信にとって、次なる目標は千曲川流域を支配する北信濃であり、そこに立ちはだかったのが村上義清であった。天文17年(1548年)、晴信は北信濃の雄・村上義清と上田原で激突するが、この戦いでは板垣信方・甘利虎泰ら宿老を失う大敗を喫していた。同年、晴信は塩尻峠の戦いで小笠原長時を破って雪辱を果たしたものの、村上義清への敗北は晴信の心中に強く刻まれていたと伝えられる。
天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原長時をさらに破って信濃中部の制圧を進めた後、北信濃における村上義清の勢力を切り崩すべく、義清方の重要な出城であった砥石城(戸石城とも表記、現在の長野県上田市)の攻略に着手する。砥石城は義清の本拠・葛尾城を守る前衛拠点であり、この城を落とすことは晴信にとって上田原の雪辱を果たし、北信濃制圧を決定づける一石二鳥の意味を持っていた。
村上義清は、清和源氏の流れを汲むとされる北信濃の名族・村上氏の当主であり、上田原の戦いで晴信を退けた経験を持つ、当時の信濃国内でも屈指の戦巧者として知られていた。義清の支配領域は千曲川流域一帯に及び、葛尾城を本拠としてその周辺に砥石城をはじめとする複数の出城を配し、重層的な防衛網を築いていた。晴信にとって義清は、信濃制圧の完遂を阻む最大の障壁として立ちはだかる存在であった。
砥石城は、東西を切り立った崖に囲まれ、攻め口は南西の一方向に限られるという、その名の通り砥石のように険しい地形を誇る要害であった。守備兵力はわずか500ほどにすぎなかったが、この天然の要害に守られて容易に落ちない堅城として知られていた。天文19年9月9日、晴信率いる武田軍約7000は、重臣・横田高松の部隊を先鋒として砥石城への総攻撃を開始した。
武田軍は圧倒的な兵力差を頼みに攻城戦を続けたが、砥石城の堅固な守りは崩れず、攻略は難航した。攻城戦が長期化する中、村上義清は本拠・葛尾城から約2000の救援軍を率いて砥石城救援に駆けつけ、武田軍を挟撃する構えを見せる。9月晦日(月末)、ついに武田軍は攻略を断念し、撤退を決断するに至った。
しかし、この撤退戦こそが武田軍にとって最大の悲劇となった。城兵と義清の救援本隊が呼応して退却する武田軍に猛追撃をかけ、10月1日、混乱する武田軍は各所で追い散らされて甚大な損害を被った。この撤退戦において、先鋒を務めていた重臣・横田高松をはじめ多くの将兵が討死し、武田軍全体で約1000人という当時としては破格の死傷者を出す大敗となった。この一連の敗北は、後世「砥石崩れ」として語り継がれ、生涯において数々の合戦を戦い抜いた武田信玄にとって、最大の敗北であったと評価されている。
横田高松は近江国甲賀郡の出身と伝わり、晴信の父・信虎の代に甲斐へ入って武田家に仕えた古参の足軽大将で、弓矢に巧みな戦巧者として信濃先方の攻略戦線で数々の武功を重ねてきた。その高松が撤退戦の混乱の中で命を落としたことは、武田軍全体に大きな衝撃を与えたと伝えられ、晴信は後年、近習の者に「武篇の者になろうとするならば、原美濃(原虎胤)、横田備中(高松)の様になれ」と語り、その死を惜しんだという逸話も残る。砥石崩れが単なる一城攻めの失敗にとどまらず、武田家中の中核を担った将帥層に深刻な打撃を与えた戦いであったことを物語っている。
砥石崩れの後も、村上義清は砥石城を保持し続けたが、武田方は攻城戦とは別の手段による切り崩しを図る。信濃先方衆として武田氏に仕えていた真田幸隆(幸綱)は、もともと小県郡真田郷を本拠とする国衆であり、この地域の人脈や情勢に精通していた。幸隆は武力によらず、城内の調略を通じて砥石城を武田方に帰属させる方策を進め、翌天文20年(1551年)5月26日、ついに砥石城は戦闘を交えることなく武田方の手に落ちた。
力攻めで大敗を喫した城を、調略によってわずか1年足らずで無血開城させたこの一件は、真田幸隆の智謀を象徴する逸話として後世まで語り継がれることとなり、真田一族が武田家中で重んじられる契機ともなった。晴信自身、大軍をもってしても落とせなかった城を、幸隆がわずかな調略のみで手中に収めたことに驚嘆したと伝えられ、以後、真田氏は武田家中でも数少ない信濃先方衆の重鎮として、外交・調略面での重要な役割を担っていくことになる。
砥石城の喪失は、村上義清にとって本拠・葛尾城を守る重要な前衛拠点を失うことを意味し、以後、義清の防衛線は大きく後退を余儀なくされた。武田氏の圧力に抗しきれなくなった義清は、天文22年(1553年)4月、ついに本拠・葛尾城を放棄し、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って亡命することとなる。義清の亡命を受けて長尾景虎が信濃出兵に踏み切ったことが、以後十数年にわたって繰り広げられる川中島の戦いの直接の契機となった。こうして砥石城という一つの出城をめぐる攻防が、結果的に信濃をめぐる武田・上杉両雄の宿命的な対決へと発展していく巨大な歴史の転換点となったのである。
砥石崩れは、堅固な地形に拠る少数の守備兵が、圧倒的な兵力差を持つ攻城軍を撃退しうることを示した戦例として、後世の軍学・城郭研究においてもしばしば取り上げられてきた。同時にこの合戦は、武力による正面攻撃の限界と、調略・謀略による城の攻略という戦国期特有の戦術思想を象徴する好対照の事例としても位置づけられている。信玄自身、この大敗を教訓として、以後の信濃経略においては力攻めに固執せず、調略や外交を織り交ぜた柔軟な戦略を重視するようになったとも評されている。事実、この後の信濃侵攻では、力攻めよりも国衆の調略や婚姻政策による懐柔を優先する場面が目立つようになり、砥石崩れの苦い経験が晴信の戦略観そのものに影響を与えたとする見方は、今日の武田氏研究においても広く共有されている。
現在、砥石城跡は長野県上田市の史跡として整備され、城跡からは上田盆地を一望できる。急峻な地形は今なお当時の要害としての姿をよく留めており、武田信玄が生涯で味わった最大の苦杯の舞台として、訪れる歴史愛好家の関心を集め続けている。
砥石崩れと、それに続く真田幸隆による無血開城は、後に「真田三代」と称される真田氏躍進の出発点として位置づけられている。幸隆の子・真田昌幸は武田家臣として上野方面の経略で頭角を現し、武田家滅亡後は独立した戦国大名として上田城を拠点に徳川の大軍を二度にわたって撃退した。さらに昌幸の子・真田信繁(幸村)は大坂の陣で徳川方を苦しめた智将として後世まで語り継がれることになる。砥石城をめぐる調略という初期の成功体験は、真田一族が調略・情報戦を得意とする家風を育む原点の一つであったとも評されている。