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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
97件のイベント
天正6年3月〜天正8年1月(1578〜1580年)
天正6〜8年(1578〜1580年)、播磨国三木城(現・兵庫県三木市)において、羽柴秀吉が別所長治の籠もる三木城を2年間にわたって兵糧攻めにした長期攻城戦。秀吉の「干殺し(ほしごろし)」戦術の代名詞となった合戦で、別所長治は城兵を助けるために自刃した。城兵を思う主君の覚悟と、刀による最期が後世に語り継がれる名場面。
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天正6年3月〜天正7年3月(1578年〜1579年)
天正6年(1578年)、越後国の覇者・上杉謙信が急死したことを発端に、謙信の養嗣子・景勝(長尾景勝)と景虎(北条三郎)の間で勃発した上杉家の家督相続争い。越後を二分する内乱は約2年間続き、景勝の勝利で幕を閉じた。謙信の霊刀・山鳥毛や景勝が誇った刀剣コレクションが、戦乱の焦点ともなった。
天正5年9月23日(1577年11月3日)
天正5年(1577年)9月、上杉謙信が手取川(現・石川県)で織田信長の大軍を奇襲して壊滅させた伝説の戦い。謙信最晩年の大勝利として知られ、「越後の龍」の武威を天下に示した。しかし翌年の謙信急死により、その勝利は歴史の「if」となった。
天正5年10月(1577年)
天正5年(1577年)10月、大和国信貴山城(現・奈良県平群町)において、松永久秀が織田信長・信忠父子の軍勢に包囲され、天守爆破により自刃した攻城戦。茶釜「平蜘蛛」を城とともに爆破し壮絶な最期を遂げた久秀の姿は、「謀将の矜持」として後世に語り継がれる。
天正4年7月13日(1576年8月)・天正6年11月6日(1578年11月)
天正4年(1576年)と天正6年(1578年)の二度にわたり、摂津国木津川口(現・大阪市)沖で行われた水上合戦。毛利水軍の兵糧輸送を阻止しようとした信長の水軍が、第一次では壊滅的敗北を喫したが、第二次では九鬼嘉隆が建造した鉄甲船により毛利水軍を撃破。世界初の装甲艦による海戦として、日本の戦史に燦然と輝く。
天正4年(1576年)5月7日
天正4年(1576年)5月、石山合戦中に織田信長が大坂・天王寺で本願寺・三好康長の連合軍を迎撃した野戦。信長自身が鉄砲弾を受けて負傷しながら戦況を逆転させた激戦。
天正19年8月〜9月(1591年9月〜10月)
天正19年(1591年)、豊臣秀吉の全国統一に反発した南部家重臣・九戸政実が陸奥国九戸城に籠城して起こした反乱。蒲生氏郷・前田利家・浅野長政らが率いる豊臣大軍が奥州に投入され、籠城戦の末に九戸城は開城。政実は処刑され、戦国最後の反乱の一つとして日本史に刻まれた。九戸城は後に「福岡城」と改称され、南部氏の支配が確定した。
天正18年7月〜8月(1590年8月〜9月)
天正18年(1590年)7月から8月、小田原征伐直後に豊臣秀吉が実施した奥州(東北)諸大名の所領再編。小田原参陣に遅参した伊達政宗は大幅減封され、改易された大崎氏・葛西氏の旧領では大規模な一揆が勃発、秀吉の天下統一を締めくくる最終局面となった。
天正18年6月23日(1590年7月24日)
天正18年(1590年)、小田原征伐の一環として、上杉景勝・前田利家ら豊臣方別働隊約1万5千が北条氏照の居城・八王子城を攻略した戦い。城主不在の中、城代以下約3千が籠城したが一日で落城した。
天正18年5月〜同年7月(1590年6月〜8月)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、石田三成が武蔵国・忍城(現・埼玉県行田市)を水攻めで攻略しようとした籠城戦。城代・成田泰季、後に総大将・成田長親が率い、正木利英や甲斐姫も支えた約500の守備隊が、三成軍数万の猛攻と石田堤による水攻めに耐えて最後まで落城しなかった。小田原城開城後も孤立して戦い続けた忍城は「浮き城」と呼ばれ、日本三大水攻めの一つとして名高い。
天正17年6月5日(1589年7月17日)
天正17年(1589年)6月、伊達政宗が会津の蘆名氏を摺上原(現・福島県耶麻郡猪苗代町)で撃破し、蘆名氏を滅亡させた合戦。政宗はこの勝利で会津・陸奥の大半を掌握し、「奥州の覇者」として東国一の大大名に上り詰めた。東北における戦国時代の実質的な終焉を告げた合戦。
天正16年7月8日(1588年8月29日)
刀狩令の目的は、農民・寺社から武器を没収して一揆を防ぎ、兵農分離=武士と農民の身分を制度的に確立することにあった。天正16年(1588年)7月に豊臣秀吉が発令した日本刀史上最大の社会変革であり、集めた刀は方広寺大仏の釘・鎹に転用するという名目で断行され、近世身分制社会の礎となった。
天正14年(1586年)7月14日〜27日
天正14年(1586年)7月、九州制覇を目前にした島津軍5万が、大友方の高橋紹運が守る筑前・岩屋城を包囲した。紹運はわずか763名の城兵とともに降伏勧告を拒み、半月にわたる死闘の末に7月27日、全員が討死する玉砕を遂げた。この壮絶な抵抗は島津軍を消耗させ、豊臣秀吉の九州征伐軍の到着まで時を稼ぎ、結果として島津の九州統一を阻んだ。
天正14年〜15年3月〜6月(1586年〜1587年)
天正14年(1586年)から15年(1587年)にかけて、豊臣秀吉が九州全土を平定した大規模軍事行動。島津義久は剃髪して降伏し、秀吉は九州国分によって諸大名の所領を再編。関東・奥州を残すのみとなる天下統一の総仕上げ段階を告げた。
天正13年8月(1585年)、慶長5年9月(1600年)
天正13年(1585年)と慶長5年(1600年)の二度にわたり、真田昌幸・幸村父子が小勢をもって徳川の大軍を上田城に退けた合戦。戦国最高の知将と称される真田昌幸の機略が輝いた守城戦の傑作。
天正13年(1585年)3月〜4月
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州征伐において、雑賀・根来衆の残る太田城を秀吉軍が水攻めにした攻城戦。堅城の太田城を力攻めで落とせなかった秀吉は、全長約7kmに及ぶ堤をわずか数日で築いて城を水没させ、約1ヶ月の籠城の末に太田左近ら首謀者53名の自害と引き換えに開城させた。備中高松城・忍城と並ぶ「日本三大水攻め」の一つに数えられる。
天正13年(1585年)11月29日
天正13年(1585年)11月29日(旧暦)に発生した天正大地震は、マグニチュード推定7.8〜8.1の巨大地震であり、北陸・東海・近畿の広域に甚大な被害をもたらした。飛騨・越中・近江などの城郭や集落が倒壊し、推定死者数は数千〜1万人以上とも言われる。豊臣秀吉による天下統一直前の時代に発生したこの地震は、名城・名刀の散逸や武将の命運にも深刻な影響を与えた。
天正12年(1584年)9月9日〜11日
天正12年(1584年)9月、小牧・長久手の戦いに呼応して羽柴方に叛旗を翻した越中の佐々成政が、能登の要衝・末森城を1万5千の大軍で包囲した。城将・奥村永福ら300の兵が落城寸前まで持ちこたえるなか、報せを受けた前田利家は2500の兵を率いて夜を徹して駆けつけ、佐々軍の背後を突いてこれを撃退。前田家の運命を決した「加賀の桶狭間」と称される。
天正10年6月13日(1582年7月2日)
天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変からわずか11日後に起きた「中国大返し」の到達点。羽柴秀吉が明智光秀を山城国山崎(現・大阪府三島郡)で撃破し、信長亡き後の覇権を手中にした。天王山をめぐる攻防から「天下分け目の戦い」という言葉が生まれた合戦。
天正10年4月〜6月2日(1582年5月〜6月21日)
天正10年(1582年)4月〜6月、備中国高松城(現・岡山市北区高松)において、羽柴秀吉が清水宗治の籠もる高松城を水攻めにした攻城戦。秀吉が足守川を堰き止めて高松城を水没させた「水攻め」は日本史上最大規模の工事とも言われる。本能寺の変の報を受けた秀吉が「中国大返し」で京都に引き返すきっかけとなった歴史的合戦。
天正10年3月2日(1582年3月2日)
天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐の中で、織田信忠率いる大軍が信濃・高遠城を包囲。城主・仁科盛信はわずか3000未満の兵で抗戦するも一日で落城し、自刃して果てた。武田家滅亡を決定づけた最後の激戦として知られる。
天正10年3月11日(1582年4月3日)
天正10年(1582年)3月、武田勝頼が甲斐国天目山(田野)で織田・徳川連合軍に追い詰められ自刃した合戦。信玄亡きあとわずか10年で滅亡した武田家の最期を告げる悲壮な戦いであり、戦国最強と謳われた武田軍団の終焉を象徴する。
天正10年(1582年)8月
天正10年(1582年)8月、長宗我部元親が阿波の三好・十河連合軍を中富川で大破した合戦。本能寺の変直後の混乱を突いた元親の決断と、一領具足の強兵による電撃作戦が四国統一の決定的な一手となった。
天正10年(1582年)6月16日〜19日
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死した直後、上野を治めていた織田家の重臣・滝川一益と、関東の雄・北条氏直の軍勢が武蔵・上野国境の神流川で激突した。戦国期の関東地方で最大規模の野戦とされ、約1万8千の滝川勢は約5万6千の北条勢に大敗、一益は本拠の伊勢長島まで敗走した。信長死後の権力の空白が関東に生んだ大合戦である。