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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
138件のイベント
慶長5年9月13日〜14日(1600年)
慶長5年(1600年)9月13日〜14日、豊後国速見郡石垣原(現・大分県別府市)において、東軍・徳川方に与した黒田如水(孝高、黒田官兵衛)の軍勢と、西軍に呼応して旧領回復を図った大友義統(吉統)の軍勢が激突した合戦。関ヶ原の本戦とほぼ同時期に九州で行われたことから「九州の関ヶ原」とも称される。黒田方の勝利に終わり、大友義統は降伏して大友氏の大名としての再興は潰えた。
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慶長5年9月(1600年)
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いと同時進行で奥羽の地において上杉景勝と最上義光・伊達政宗連合軍が激突した合戦。直江兼続率いる上杉軍が長谷堂城を攻め、最上方の頑強な抵抗と関ヶ原敗報を受けて撤退した。
慶長5年8月22〜23日(1600年9月27〜28日)
慶長5年8月22〜23日(1600年)、美濃国岐阜城(現・岐阜県岐阜市)において、東軍・福島正則・池田輝政らが西軍・織田秀信(三法師)の守る岐阜城を二日で攻略した合戦。関ヶ原の戦いの前哨戦として重要な位置を占め、天下分け目の戦いに先立つ東軍の快勝が西軍の戦略的配置を大きく乱した。
慶長5年7月19日〜8月1日(1600年8月30日〜9月8日)
慶長5年(1600年)7月〜8月、関ヶ原の戦いの前哨戦として勃発した籠城戦。徳川家康の老臣・鳥居元忠が伏見城に立て籠もり、石田三成率いる西軍約4万に対して約1800の寡兵で十余日間防戦し、城と運命を共にした。元忠の忠義と玉砕が東軍諸将の士気を高め、関ヶ原の戦いへの序章となった。戦後、血で染まった廊下板は「血天井」として諸寺に移され、今も伏見城の壮絶な最期を伝える。
慶長17年(1612年)4月13日
慶長17年(1612年)4月13日、豊前国・巌流島において宮本武蔵と佐々木小次郎が一騎討ちを行い、武蔵が勝利した。日本の剣術史・武士道文化を象徴する伝説の決闘。
慶長14年3月4日〜4月4日(1609年、山川出港から首里城開城まで)
慶長14年(1609年)、薩摩藩主・島津家久の命を受けた樺山久高率いる約3,000の軍勢が琉球王国へ侵攻した。山川港を出港し奄美大島・徳之島・沖永良部島を経て運天港に上陸、首里城を開城させ国王・尚寧を降伏させた。以後、琉球王国は日本と中国の双方に従属する「日支両属」体制へと移行し、幕末までその立場を保つことになる。
慶応4年3月6日(1868年3月29日)
慶応4年(1868年)3月6日、甲斐国勝沼(現・山梨県甲州市)において、新政府軍(土佐藩兵ら)と旧幕府軍(近藤勇・土方歳三率いる新選組改め甲陽鎮撫隊)が激突した戊辰戦争の戦闘。兵力差と銃火器の圧倒的優位により甲陽鎮撫隊は壊滅的敗北を喫し、新選組は事実上の戦力として消滅した。
慶応4年1月3日〜6日(1868年1月27日〜30日)
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の口火を切った薩摩・長州連合軍と旧幕府軍の激突。近代兵器を擁する新政府軍が圧勝し、徳川慶喜は江戸へ敗走。武士の時代の終わりを告げる戦いとなり、刀剣文化においても「刀から銃へ」の転換点として記憶される。
慶応4年1月〜明治2年5月(1868年1月〜1869年6月)
慶応4年(1868年)から明治2年(1869年)にかけて、倒幕・維新派の薩長同盟を中核とする新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟が激突した内戦。鳥羽・伏見の戦いに始まり、会津戦争・箱館戦争をもって終結した。廃刀令前夜、刀剣が近代戦争の中で最後の輝きを放った時代である。
慶応2年6月7日〜8月下旬(1866年7月)
慶応2年(1866年)、幕府が長州藩征討のため諸藩に出兵を命じた軍事作戦。しかし薩長同盟(坂本龍馬仲介)後の長州藩は高杉晋作率いる奇兵隊で幕府軍を各戦線で撃退。幕府の実力の限界を天下に示し、翌年の大政奉還・明治維新への決定的な転換点となった。
応永6年(1399年)10月〜12月
応永6年(1399年)、室町3代将軍・足利義満と西国最大の守護大名・大内義弘が和泉国堺で激突した反乱。義弘が大太刀を手に討ち死にして終結し、将軍権力の確立と室町刀剣文化の礎となった。
応永26年6月(1419年)
応永26年(1419年)6月、李氏朝鮮が227隻・1万7285人の大軍で対馬を侵攻した事件。対馬守護・宗貞盛率いるわずか600人の武士が地の利を生かした奇襲で善戦し、朝鮮軍を撃退した。元寇以来140年ぶりの対外軍事侵攻であり、室町幕府・日朝関係に大きな転換をもたらした。
弘治2年8月24日(1556年9月27日)
弘治2年(1556年)8月24日、尾張国稲生(現・名古屋市西区)で勃発した、織田信長と弟・信行(信勝)の骨肉の戦い。信長はわずか700余の兵で信行・柴田勝家の2000余の大軍を破り、信長の覇権を尾張で確立した最初の実戦である。
弘治2年4月20日(1556年5月28日)
弘治2年(1556年)4月20日、美濃国長良川河畔(現・岐阜市)において、斎藤道三(さいとうどうさん)が実子・斎藤義龍(よしたつ)率いる軍勢と戦い討死した合戦。「美濃の蝮(まむし)」と恐れられた道三が、息子に裏切られて最後を遂げたこの戦いは、岳父・道三の支援を頼みにしていた織田信長に大きな衝撃を与えた。
弘安4年(1281年)
弘安4年(1281年)、元・高麗連合軍約14万人・4400隻が博多湾に来襲した第二次蒙古襲来。北条時宗が整備した石塁と日本武士の夜襲・白兵戦、および7月30日の暴風雨(神風)により元軍は壊滅した。鎌倉後期の日本刀が実戦でその真価を問われた最大の事件であり、備前長船の長光・相模の正宗らが活躍した刀剣黄金期と重なる歴史的戦役。
建武3年/延元元年(1336年)3月2日
建武3年/延元元年(1336年)3月、京を追われて九州に落ち延びた足利尊氏が、後醍醐天皇方(宮方)の菊池武敏の大軍を筑前・多々良浜で破った合戦。わずか2千余の足利軍が2万を超える菊池軍を、大量の寝返りを誘って撃破し、これを機に九州の大半が足利方に転じた。尊氏はここで態勢を立て直し、再び東上して湊川の戦いで楠木正成を破る足がかりを得た。
建武3年・延元元年5月25日(1336年7月4日)
建武3年・延元元年(1336年)5月、足利尊氏の大軍に楠木正成・新田義貞が立ち向かった南北朝最初の決戦。絶対的不利を知りながら出陣した正成は奮戦の末に自害。「日本一の忠臣」として永く語り継がれる散り際は、武士道精神の象徴となった。
建武2年7月〜8月(1335年8月〜9月)
建武2年(1335年)7月、北条高時の遺児・北条時行が信濃国で挙兵し、鎌倉を一時占領した反乱。足利尊氏が後醍醐天皇の勅命を無視して独断で鎌倉へ向かい、時行を打ち破ったことが尊氏と建武政権の決裂のきっかけとなり、南北朝時代の幕開けを告げた歴史的事件。
建暦3年5月2日(1213年6月2日)
建暦3年(1213年)5月、鎌倉で起きた鎌倉幕府の内部抗争。侍所別当・和田義盛が北条義時に対して武力蜂起したが、敗れて滅亡した。この合戦により北条氏の幕府内支配権が一層強化され、執権政治の確立に決定的な役割を果たした。また和田義盛が蒐集していた名刀が戦後に各地に散った史実は、刀剣の流転という歴史の一側面を示す。
延暦20〜21年(801〜802年)(延暦16年(797年)征夷大将軍任命)
延暦16年(797年)、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され、延暦20〜21年(801〜802年)の第三次蝦夷征討で蝦夷の族長・阿弖流為を降伏させ、胆沢城を築いて鎮守府を移した。武力と懐柔を組み合わせた田村麻呂の征討は東北支配を確立したのみならず、後の源頼朝・足利尊氏・徳川家康へと継承される「征夷大将軍」という武家政権の象徴的称号の歴史的根拠を作った。この征討は日本における武士階級と刀剣文化の展開にとって不可分な出発点となった。
寿永3年1月20日(1184年2月21日)
寿永3年(1184年)1月、源義仲(木曾義仲)が源頼朝の命を受けた義経・範頼の軍勢に敗れ、近江国粟津(現・滋賀県大津市)で討ち取られた戦い。「巴御前」との別れ、松原での一騎討ちを経て矢を受けた義仲が沼地に落馬し討たれたその最期は、軍記物語「平家物語」の白眉として語り継がれ、義仲・巴御前という「義と愛」の象徴とともに日本人の記憶に深く刻まれている。
寿永3年(1184年)1月、源義仲(木曾義仲)と源頼朝方の武将・源義経・範頼が激突した内乱。義仲は宇治川を天然の防衛線として布陣したが、梶原景季・佐々木高綱の「先陣争い」という日本史最大の武勇伝を経て、頼朝軍が突破。義仲は近江粟津で討たれ、鎌倉幕府確立への決定的な一歩が刻まれた。
寿永2年閏10月1日(1183年11月17日)
寿永2年(1183年)閏10月、備中国水島で源義仲方の追討軍と平家水軍が激突した海戦。合戦中に金環日食が起こり、暦法を熟知していた平家方が動揺する源氏方を圧倒して大勝した。
寿永2年5月11日(1183年6月2日)
寿永2年(1183年)5月、木曾義仲(源義仲)が越中・加賀の国境に位置する倶利伽羅峠において、平維盛率いる平家大軍を大破した戦い。牛の角に松明を結びつける「火牛の計」の逸話で知られ、義仲の京都入りへの道を開いた源平合戦の転換点。