
新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
建武2年7月〜8月(1335年8月〜9月)
信濃国〜武蔵国・鎌倉(現・長野県〜神奈川県鎌倉市)
勢力
北条時行軍(旧北条氏残党)
建武政権(鎌倉将軍府)→足利尊氏軍
約3分で読めます
建武2年(1335年)夏、日本史の転換点となる反乱が信濃国の山中で起きた。元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡によって、北条氏の当主・北条高時は自害し、鎌倉幕府は150年の歴史に幕を閉じた。しかしその遺児・北条時行(当時10代前半の少年)は、諏訪の山中に匿われて生き延びていた。これが「中先代の乱」の主人公である。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は足利尊氏・新田義貞らの助力を得て鎌倉幕府を打倒し、「建武の中興」(建武の新政)を打ち立てた。しかしこの新政権は武士よりも公家を重視する政策を推進し、武家社会との摩擦を生んだ。恩賞の不公平、地頭制度への介入、公家優先の行政など、武士たちの不満は建武2年(1335年)にはすでに限界に達していた。
この武家社会の不満は、刀剣文化においても反映されている。建武の新政期は、武士が「帯刀の権」をもって政治参加を求めていた時代であった。刀は武士の身分証明であり、その帯刀が政治的権限と連動していた。後醍醐天皇の公家中心政治は、武士の刀が象徴する武権を軽視するものとして受け取られた。
建武2年(1335年)7月、諏訪頼重の支援を受けた北条時行は信濃国で挙兵した。「旧北条氏の復興」を掲げた時行軍は、鎌倉幕府への郷愁を持つ東国武士の一部を糾合しながら、急速に南下した。
建武政権が鎌倉将軍府として派遣していた足利直義(尊氏の弟)軍は各地で敗退し、時行軍は電撃的な速度で武蔵国へと進撃した。7月下旬、時行軍は鎌倉を占領することに成功した。北条氏が滅亡してわずか2年、鎌倉は再び北条氏の旗のもとに置かれた——それはほんのわずかな間であったが、東国の武士社会に深い衝撃を与えた出来事であった。
足利直義は鎌倉から脱出し、護良親王(後醍醐天皇の皇子で、建武政権への不満から投獄されていた)を殺害して退いた。護良親王の刀は「天皇家の権威」を象徴する品とされていたが、この乱の混乱の中で散逸した。
中先代の乱が展開した信濃国・武蔵国は、鎌倉時代を通じて刀剣文化の中心地であった。特に信濃の諏訪地方は鉄の産地であり、諏訪大社との結びつきを持つ鍛冶師が古くから活動していた。北条時行軍の兵士たちが帯びた刀は、この地域の鍛冶師によるものが多かったと考えられる。
建武期の刀剣は、古刀の中でも南北朝期の力強い作風が現れる時期にあたる。南北朝時代の動乱に向けて刀鍛冶は量産体制へと移行し始め、装飾的な完成度よりも実戦での耐久性が重視されるようになった。「南北朝打ち」と呼ばれる大ぶりで豪壮な刀のスタイルは、この時代の武士の剛健な精神と合戦の激しさを反映している。
鎌倉陥落の報を受けた足利尊氏は、後醍醐天皇の許可を得ないまま独断で東国へ出陣した。尊氏は天皇から征夷大将軍への任命を求めていたが、許可されなかったにもかかわらず軍を動かしたのである。
尊氏軍は迅速に南下し、建武2年(1335年)8月には時行軍を破り、鎌倉を奪回した。北条時行は逃亡し(その後も各地で抵抗を続けた)、中先代の乱は約20日間で終息した。
しかし問題はここからであった。尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を無視し、鎌倉に留まって独自の政治を行い始めた。これが建武政権との決裂のきっかけとなり、翌年には後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を樹立する南北朝の動乱へと発展した。
中先代の乱は、日本の中世史における「分水嶺」である。この乱を境に、日本は南北朝の動乱期に突入し、約60年にわたる武力抗争の時代が続いた。
この動乱期は日本刀の歴史においても重大な転換点であった。南北朝の激しい内戦は刀鍛冶に大量生産を迫り、武器としての刀の需要が急増した。「長巻」「野太刀」「薙刀」など、戦場での集団戦に対応した大ぶりの武器が発達したのもこの時代であり、刀剣の形態が戦闘スタイルの変化に対応して多様化した。
北条時行という少年武将の挙兵が引き起こした中先代の乱は、足利尊氏という時代の変革者を歴史の前面に押し出し、日本刀の歴史においても「動乱の時代の刀」への転換を加速させた事件として、刀剣文化史に刻まれている。