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延暦20〜21年(801〜802年)(延暦16年(797年)征夷大将軍任命)
陸奥国胆沢(岩手県奥州市)・志波(岩手県盛岡市付近)
勢力
朝廷軍(官軍)
蝦夷(東北非服属勢力)
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延暦16年(797年)、桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。史料上に確認できる征夷大将軍としての実質的な機能を初めて発揮した人物として、田村麻呂は後の武家政権史において規範的な地位を占める。その征夷の功績は、単なる軍事的勝利にとどまらず、日本における武士階級の形成と刀剣文化の発展に深く結びついている。
奈良時代から平安時代初期にかけて、朝廷は東北地方(陸奥・出羽)の蝦夷(えみし)と呼ばれる非服属勢力との断続的な軍事衝突を繰り返していた。蝦夷は独自の社会組織を持ち、朝廷の支配に抵抗した。朝廷は多賀城(宮城県)を鎮守府として東北経営の拠点としたが、蝦夷の抵抗は続いた。
桓武天皇(在位781〜806年)は長岡京・平安京への遷都と並行して蝦夷征討を重要政策とし、複数回にわたる大規模征討軍を派遣した。延暦8年(789年)の第一次征討では38,000の軍勢が蝦夷の族長・阿弖流為(アテルイ)率いる軍に敗北を喫した(巣伏の戦い)。この大敗が桓武天皇に強力な指揮官の必要性を痛感させ、田村麻呂の登用につながった。
坂上田村麻呂(758〜811年)は帰化人系の武人一族の出身で、父は坂上苅田麻呂。身長約175cmという当時としては異例の長躯、赤ら顔・鷹のような眼・金色の顎髭という威圧的な外貌を持ちながら、心根は温厚で慈悲深かったと伝えられる。
延暦13年(794年)の第二次征討では副将として従軍し、実戦経験を積んだ。この功績を踏まえ、延暦16年(797年)に征夷大将軍に任じられた。征夷大将軍は本来「蝦夷を征討する臨時の将軍」を意味する官職であったが、田村麻呂の任命以降、この称号は武家政権の頂点を示す最高職として歴史に定着していく。
延暦20年(801年)、田村麻呂は約40,000の大軍を率いて第三次征討を開始した。精強で知られる蝦夷軍との激戦の末、延暦21年(802年)には蝦夷の中心的族長であった阿弖流為と盤具母礼(モレ)が500名の部下とともに降伏した。これは田村麻呂が単なる武力制圧だけでなく、蝦夷に対して稲作・養蚕などの農業技術を伝えることで文化的懐柔も図ったことによる。
同年、田村麻呂は蝦夷の支配地域の中心部・胆沢(岩手県奥州市)に胆沢城を築き、鎮守府を多賀城から胆沢城に移した。さらに延暦22年(803年)には志波城(岩手県盛岡市付近)を築いて北方への支配を拡大した。
降伏した阿弖流為と盤具母礼は田村麻呂とともに京都に連行された。田村麻呂は二人の命乞いを天皇に訴えたが、朝廷はこれを拒否し、二人は河内国(大阪府枚方市)で処刑された。この挿話は田村麻呂の「武人としての強さと武人としての慈悲」という後世の伝説的イメージの根幹をなす。
「征夷大将軍」という称号は、田村麻呂の征討によってその実質的な意味が歴史に刻まれ、後世の武家政権において絶大な象徴的権威を帯びることになる。鎌倉幕府を開いた源頼朝(1192年任命)、室町幕府の足利尊氏(1338年)、江戸幕府の徳川家康(1603年)は、いずれも田村麻呂が確立したこの称号を用いて武家政権の正統性を主張した。
田村麻呂が活躍した平安初期は、日本刀の様式が「直刀」から「湾刀(反りのある刀)」へと移行する過渡期にあたる。奈良時代・平安初期の直刀(両刃の剣・片刃の剣)は、馬上での戦闘様式の変化とともに、片刃で反りのある「湾刀」へと進化していく。この刀形の変化は9世紀後半から10世紀にかけて加速し、後の「日本刀」の原型が完成されていく。田村麻呂の蝦夷征討における馬上騎兵戦術の発展が、この刀形進化の一因であったと考えられている。
東北での戦闘経験を積んだ武人集団は、後の武士階級の形成における重要な核となった。坂上氏をはじめとする帰化人系武人一族の子孫が、平安中期以降の武家社会の中核を形成し、刀剣を武士の魂の象徴とする文化の形成に寄与した。
延暦25年(806年)の桓武天皇崩御後も田村麻呂は重職を歴任し、大同4年(809年)に「藤原薬子の変」への対応でも活躍した。弘仁2年(811年)に没し、従二位大納言を追贈された。
田村麻呂は没後も武神として信仰を集め、京都・清水寺の草創伝説の主人公として知られる。清水寺は田村麻呂が鹿狩りの際に草庵の観音堂を発見し、山城の建設を助けたとされる。また京都の随所に田村麻呂を祀る社があり、平安京の守護神として崇敬された。刀剣・武具を奉納する武神として、武士階級が形成された平安中期以降も武人たちの信仰を集め続けた。