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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
107件のイベント
天正10年3月2日(1582年3月2日)
天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐の中で、織田信忠率いる大軍が信濃・高遠城を包囲。城主・仁科盛信はわずか3000未満の兵で抗戦するも一日で落城し、自刃して果てた。武田家滅亡を決定づけた最後の激戦として知られる。
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天正10年3月11日(1582年4月3日)
天正10年(1582年)3月、武田勝頼が甲斐国天目山(田野)で織田・徳川連合軍に追い詰められ自刃した合戦。信玄亡きあとわずか10年で滅亡した武田家の最期を告げる悲壮な戦いであり、戦国最強と謳われた武田軍団の終焉を象徴する。
天正10年(1582年)8月
天正10年(1582年)8月、長宗我部元親が阿波の三好・十河連合軍を中富川で大破した合戦。本能寺の変直後の混乱を突いた元親の決断と、一領具足の強兵による電撃作戦が四国統一の決定的な一手となった。
天正10年(1582年)6月16日〜19日
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死した直後、上野を治めていた織田家の重臣・滝川一益と、関東の雄・北条氏直の軍勢が武蔵・上野国境の神流川で激突した。戦国期の関東地方で最大規模の野戦とされ、約1万8千の滝川勢は約5万6千の北条勢に大敗、一益は本拠の伊勢長島まで敗走した。信長死後の権力の空白が関東に生んだ大合戦である。
天文元年(1532年)8月
天文元年(1532年)8月、細川晴元・六角定頼・法華一揆の連合軍が一向一揆の本拠・山科本願寺を焼き払い壊滅させた享禄・天文の乱の決定的事件。本願寺本拠の大坂移転と石山合戦への布石となった。
天文9年(1540年)秋
天文9年(1540年)秋、安芸国郡山城(現・広島県安芸高田市)において、毛利元就が尼子晴久率いる出雲の大軍の攻撃を撃退した合戦。兵力で圧倒的に劣る毛利軍が、元就の巧みな守城戦と反撃により尼子の侵攻を退け、毛利氏が中国地方の覇者へと成長する転換点となった歴史的勝利。
天文7年10月7日(1538年10月23日)
天文7年(1538年)、下総国国府台で小弓公方足利義明・里見義堯らの連合軍と後北条氏の北条氏綱・氏康父子が激突した戦い。義明の戦死により小弓公方は滅亡し、北条氏が下総方面へ勢力を拡大する契機となった。
天文5年7月(1536年)
天文5年(1536年)7月、比叡山延暦寺の僧兵が六角定頼の軍事支援を受けて京都の日蓮宗21本山をすべて焼き討ちにした宗教戦争。応仁の乱を上回るともいわれる大規模な焦土をもたらし、法華宗信徒は6年間京都から追放された。戦国時代における宗教・武力・大名権力の交錯を示す事件。
天文5年3月17日(1536年4月7日)氏輝・彦五郎急死、同年6月10日(6月28日)恵探自刃で終結
天文5年(1536年)、今川氏輝・彦五郎兄弟の急死を機に勃発した今川家の家督争い。栴岳承芳(後の今川義元)派と玄広恵探派が駿河国内で交戦し、恵探方の花倉城落城・恵探自刃によって義元が家督を継承した。
天文4年(1535年)〜天正7年(1579年)頃の一連の事件
伊勢桑名の刀工一派・村正の作は、松平清康・広忠、徳川家康、松平信康という徳川家四代に降りかかったとされる負傷・死没の逸話が積み重なり、江戸期に「徳川家に祟る妖刀」として語られるようになった。実戦刀としての評価の高さと、東海地方での流通量の多さが伝説形成の背景にあるとみられる。
天文20年9月1日(1551年9月30日)
天文20年(1551年)、大内氏の重臣・陶晴賢が謀反を起こし、西国の文化的大パトロン・大内義隆を長門大寧寺で自刃させた政変。日明貿易と刀工庇護の中心であった大内氏の滅亡は、西国刀剣文化に大きな断絶をもたらした。
天文19年9月9日〜10月1日(1550年)
天文19年(1550年)9月から10月にかけて、信濃国小県郡の砥石城をめぐって武田晴信(信玄)と村上義清が争った合戦。攻略に失敗した武田軍は撤退戦で約1000人の死傷者と重臣横田高松を失い、信玄生涯最大の敗北と呼ばれる。翌年、真田幸隆の調略により砥石城は無血で武田方に帰した。
天文18年(1549年)
三好長慶が江口の戦いで細川晴元を破り畿内を制覇。室町将軍を凌ぐ権勢を確立し、信長以前に「天下人」の地位を実現した最初の戦国覇者。刀剣文化の流通と需要拡大にも大きく貢献した。
天文17年3月19日(1548年)
天文17年(1548年)3月19日、三河国額田郡小豆坂(現・愛知県岡崎市)において、尾張の織田信秀と、駿河・遠江・三河を治める今川義元(軍を率いたのは太原雪斎)が激突した合戦。岡崎城主・松平広忠の後見をめぐって尾張・織田氏と駿河・今川氏が三河の帰属を争う中で発生し、今川方の勝利により今川氏の三河支配が確定した。二度にわたり同地で戦われたとされ、1548年の戦いは「第二次小豆坂の戦い」とも呼ばれる。
天文17年2月(1548年)
天文17年(1548年)2月、信濃国小県郡上田原(現・長野県上田市)において、武田信玄と村上義清が激突した合戦。武田軍が大敗し、信玄は右太腿に矢傷を負って本陣に退くという稀有な苦戦を喫した。軍師・板垣信方と甘利虎泰という二将を失った武田軍にとって、戦国史上屈指の屈辱的敗北として記憶される。
天文15年4月20日(1546年5月19日)
天文15年(1546年)、北条氏康が80,000の包囲軍に対してわずか8,000の兵で夜間奇襲を敢行した関東最大の奇襲戦。北条・上杉・足利が三つ巴で争う中、氏康の大胆な戦略が上杉朝定・足利晴氏連合軍を壊滅させ、北条氏の関東覇権を確立した。
天文12年8月25日(1543年9月23日)
天文12年(1543年)、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島(現・鹿児島県)に漂着し、日本に初めて火縄銃(鉄砲)がもたらされた歴史的事件。島主・種子島時堯が2挺の鉄砲を購入し、島内の刀工・八板金兵衛らが短期間で国産複製に成功した。鉄砲の普及は戦国時代の戦争様式を根本から変え、長篠の戦い(1575年)での織田信長による鉄砲隊の組織的運用がその頂点となった。日本刀を主軸とした個人武勇の時代から、集団戦・遠距離兵器の時代への転換点となった事件である。
天文11年(1542年)6月〜天文17年(1548年)9月
天文11年(1542年)から17年(1548年)にかけ、伊達家当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗が家督と外交路線を巡って対立し、南奥羽の諸大名を二分する6年におよぶ大乱に発展した。将軍・足利義輝の仲裁で和睦し、晴宗は本拠を米沢城へ移して体制を再編、後の伊達政宗による奥州制覇の前史となった。
元亀元年6月28日(1570年7月30日)
元亀元年(1570年)6月、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江国姉川河畔で激突した野戦。家康の家臣・榊原康政らの奮戦で戦局を転じ、織田・徳川軍が勝利。浅井・朝倉同盟の瓦解を加速させた合戦。
元亀元年4月(1570年)
元亀元年(1570年)4月、越前国敦賀の金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)において、織田信長が朝倉義景討伐のために越前に侵攻中、同盟者・浅井長政の突然の裏切りによって挟撃の危機に陥り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)を殿軍に残して強行突破した撤退戦。秀吉が「天下人への足がかり」を掴んだとも言われる「金ヶ崎の退き口」は戦国屈指の名撤退として語り継がれる。
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)、織田信長と石山本願寺(浄土真宗の総本山)との間で行われた約10年間にわたる攻防戦。一向宗の武装門徒(一向一揆)が石山(現・大阪城付近)に拠って信長軍と戦い続け、最終的には天皇の勅命による和議で終結した。日本刀と信仰が交差した戦国最長の籠城戦。
元亀4年4月12日(1573年5月13日)
元亀4年(1573年)、上洛を目指し西上作戦を進めていた甲斐の戦国大名・武田信玄は、三方ヶ原で徳川家康を破った後、野田城攻略中に病を発し、甲斐への撤退途上、信濃国駒場にて53歳で死去した。その死は信長包囲網の瓦解と、後の長篠の敗北・武田家滅亡への転換点となった。
元亀3年5月4日(1572年6月5日)
元亀3年(1572年)、日向国(現・宮崎県)において、島津義弘率いる島津軍が伊東義祐率いる伊東軍を奇策で撃破した合戦。寡兵の島津義弘が「釣り野伏せ」の戦術で3倍以上の伊東軍を殲滅し、薩摩・日向の覇権をめぐる抗争で決定的な勝利を収めた。この戦いで義弘の武名は轟き、島津家の日向支配が確立された。「日向の桶狭間」とも呼ばれる薩隅日の合戦史上最重要の戦い。
元亀3年〜天正3年(1572年〜1575年)
元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)にかけて、美濃・岩村城をめぐり武田と織田が争った。女城主おつやの方は武田の智将・秋山虎繁との婚姻によって城を守ろうとしたが、長篠合戦後に信長方が城を奪還し、虎繁とおつやの方は処刑された。