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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
97件のイベント
天文元年(1532年)8月
天文元年(1532年)8月、細川晴元・六角定頼・法華一揆の連合軍が一向一揆の本拠・山科本願寺を焼き払い壊滅させた享禄・天文の乱の決定的事件。本願寺本拠の大坂移転と石山合戦への布石となった。
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天文9年(1540年)秋
天文9年(1540年)秋、安芸国郡山城(現・広島県安芸高田市)において、毛利元就が尼子晴久率いる出雲の大軍の攻撃を撃退した合戦。兵力で圧倒的に劣る毛利軍が、元就の巧みな守城戦と反撃により尼子の侵攻を退け、毛利氏が中国地方の覇者へと成長する転換点となった歴史的勝利。
天文7年10月7日(1538年10月23日)
天文7年(1538年)、下総国国府台で小弓公方足利義明・里見義堯らの連合軍と後北条氏の北条氏綱・氏康父子が激突した戦い。義明の戦死により小弓公方は滅亡し、北条氏が下総方面へ勢力を拡大する契機となった。
天文5年7月(1536年)
天文5年(1536年)7月、比叡山延暦寺の僧兵が六角定頼の軍事支援を受けて京都の日蓮宗21本山をすべて焼き討ちにした宗教戦争。応仁の乱を上回るともいわれる大規模な焦土をもたらし、法華宗信徒は6年間京都から追放された。戦国時代における宗教・武力・大名権力の交錯を示す事件。
天文4年(1535年)〜天正7年(1579年)頃の一連の事件
伊勢桑名の刀工一派・村正の作は、松平清康・広忠、徳川家康、松平信康という徳川家四代に降りかかったとされる負傷・死没の逸話が積み重なり、江戸期に「徳川家に祟る妖刀」として語られるようになった。実戦刀としての評価の高さと、東海地方での流通量の多さが伝説形成の背景にあるとみられる。
天文20年9月1日(1551年9月30日)
天文20年(1551年)、大内氏の重臣・陶晴賢が謀反を起こし、西国の文化的大パトロン・大内義隆を長門大寧寺で自刃させた政変。日明貿易と刀工庇護の中心であった大内氏の滅亡は、西国刀剣文化に大きな断絶をもたらした。
天文18年(1549年)
三好長慶が江口の戦いで細川晴元を破り畿内を制覇。室町将軍を凌ぐ権勢を確立し、信長以前に「天下人」の地位を実現した最初の戦国覇者。刀剣文化の流通と需要拡大にも大きく貢献した。
天文17年3月19日(1548年)
天文17年(1548年)3月19日、三河国額田郡小豆坂(現・愛知県岡崎市)において、尾張の織田信秀と、駿河・遠江・三河を治める今川義元(軍を率いたのは太原雪斎)が激突した合戦。岡崎城主・松平広忠の後見をめぐって尾張・織田氏と駿河・今川氏が三河の帰属を争う中で発生し、今川方の勝利により今川氏の三河支配が確定した。二度にわたり同地で戦われたとされ、1548年の戦いは「第二次小豆坂の戦い」とも呼ばれる。
天文17年2月(1548年)
天文17年(1548年)2月、信濃国小県郡上田原(現・長野県上田市)において、武田信玄と村上義清が激突した合戦。武田軍が大敗し、信玄は右太腿に矢傷を負って本陣に退くという稀有な苦戦を喫した。軍師・板垣信方と甘利虎泰という二将を失った武田軍にとって、戦国史上屈指の屈辱的敗北として記憶される。
天文15年4月20日(1546年5月19日)
天文15年(1546年)、北条氏康が80,000の包囲軍に対してわずか8,000の兵で夜間奇襲を敢行した関東最大の奇襲戦。北条・上杉・足利が三つ巴で争う中、氏康の大胆な戦略が上杉朝定・足利晴氏連合軍を壊滅させ、北条氏の関東覇権を確立した。
天文12年8月25日(1543年9月23日)
天文12年(1543年)、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島(現・鹿児島県)に漂着し、日本に初めて火縄銃(鉄砲)がもたらされた歴史的事件。島主・種子島時堯が2挺の鉄砲を購入し、島内の刀工・八板金兵衛らが短期間で国産複製に成功した。鉄砲の普及は戦国時代の戦争様式を根本から変え、長篠の戦い(1575年)での織田信長による鉄砲隊の組織的運用がその頂点となった。日本刀を主軸とした個人武勇の時代から、集団戦・遠距離兵器の時代への転換点となった事件である。
天文11年(1542年)6月〜天文17年(1548年)9月
天文11年(1542年)から17年(1548年)にかけ、伊達家当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗が家督と外交路線を巡って対立し、南奥羽の諸大名を二分する6年におよぶ大乱に発展した。将軍・足利義輝の仲裁で和睦し、晴宗は本拠を米沢城へ移して体制を再編、後の伊達政宗による奥州制覇の前史となった。
元亀元年6月28日(1570年7月30日)
元亀元年(1570年)6月、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江国姉川河畔で激突した野戦。家康の家臣・榊原康政らの奮戦で戦局を転じ、織田・徳川軍が勝利。浅井・朝倉同盟の瓦解を加速させた合戦。
元亀元年4月(1570年)
元亀元年(1570年)4月、越前国敦賀の金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)において、織田信長が朝倉義景討伐のために越前に侵攻中、同盟者・浅井長政の突然の裏切りによって挟撃の危機に陥り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)を殿軍に残して強行突破した撤退戦。秀吉が「天下人への足がかり」を掴んだとも言われる「金ヶ崎の退き口」は戦国屈指の名撤退として語り継がれる。
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)、織田信長と石山本願寺(浄土真宗の総本山)との間で行われた約10年間にわたる攻防戦。一向宗の武装門徒(一向一揆)が石山(現・大阪城付近)に拠って信長軍と戦い続け、最終的には天皇の勅命による和議で終結した。日本刀と信仰が交差した戦国最長の籠城戦。
元亀4年4月12日(1573年5月13日)
元亀4年(1573年)、上洛を目指し西上作戦を進めていた甲斐の戦国大名・武田信玄は、三方ヶ原で徳川家康を破った後、野田城攻略中に病を発し、甲斐への撤退途上、信濃国駒場にて53歳で死去した。その死は信長包囲網の瓦解と、後の長篠の敗北・武田家滅亡への転換点となった。
元亀3年5月4日(1572年6月5日)
元亀3年(1572年)、日向国(現・宮崎県)において、島津義弘率いる島津軍が伊東義祐率いる伊東軍を奇策で撃破した合戦。寡兵の島津義弘が「釣り野伏せ」の戦術で3倍以上の伊東軍を殲滅し、薩摩・日向の覇権をめぐる抗争で決定的な勝利を収めた。この戦いで義弘の武名は轟き、島津家の日向支配が確立された。「日向の桶狭間」とも呼ばれる薩隅日の合戦史上最重要の戦い。
元亀3年〜天正3年(1572年〜1575年)
元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)にかけて、美濃・岩村城をめぐり武田と織田が争った。女城主おつやの方は武田の智将・秋山虎繁との婚姻によって城を守ろうとしたが、長篠合戦後に信長方が城を奪還し、虎繁とおつやの方は処刑された。
1615年5月(慶長20年4月〜5月)
慶長20年(1615年)5月、徳川家康が豊臣家を滅ぼした最後の決戦。真田幸村が家康本陣へ決死の突撃を敢行し、その壮絶な最期は「日本一の兵(つわもの)」と称えられた。
1614年10月〜12月(慶長19年9月〜12月)
慶長19年(1614年)10月〜12月、徳川家康が豊臣秀頼の居城・大坂城を攻囲した合戦。真田幸村が「真田丸」を築いて徳川軍を撃退し、砲撃戦・和議交渉が絡み合う複雑な攻防戦となった。翌年の夏の陣への直接の前哨戦。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の決戦が美濃国関ヶ原で行われた。東軍・徳川家康と西軍・石田三成が激突し、わずか一日で日本の覇権が決した歴史的大合戦。
1600-09-02
慶長5年(1600年)7月、関ヶ原前夜に徳川家康が下野国小山で召集した軍議。福島正則ら東軍諸将の忠誠を取り付け、会津征伐から西軍討伐へと方針転換した天下の分岐点。
1597-01 〜 1598-12
慶長2年(1597年)、文禄の役から4年の休戦を経て豊臣秀吉が再び朝鮮へ大軍を送り込んだ。蔚山城の籠城戦(加藤清正)、島津義弘の露梁海峡の戦いにおける決死の退き口など、日本刀と鉄砲が混在する近世戦争の実態を刻んだ戦役である。秀吉の病死によって戦争目的を失い全軍撤退。朝鮮半島に甚大な人的・文化的損害を与えた。
1590年4月〜8月(天正18年3月〜7月)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が大軍を率いて北条氏の本拠・小田原城を包囲した合戦。3ヶ月以上にわたる長期包囲の末、北条氏政・氏直父子が降伏し、氏政が切腹して、100年続いた後北条氏が滅亡。秀吉の天下統一が完成した歴史的事件。