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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
150件のイベント
元亀元年4月(1570年)
元亀元年(1570年)4月、越前国敦賀の金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)において、織田信長が朝倉義景討伐のために越前に侵攻中、同盟者・浅井長政の突然の裏切りによって挟撃の危機に陥り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)を殿軍に残して強行突破した撤退戦。秀吉が「天下人への足がかり」を掴んだとも言われる「金ヶ崎の退き口」は戦国屈指の名撤退として語り継がれる。
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元亀元年(1570年)〜天正二年(1574年)
元亀元年(1570年)から天正二年(1574年)にかけて、伊勢国長島(現・三重県桑名市)で勃発した一向宗(浄土真宗)門徒の大規模な武装蜂起。織田信長は三度の長島攻めを行い、第三次長島攻め(1574年)でついに制圧したが、その際に行った降伏した門徒の大量虐殺は、信長の苛烈な戦い方を象徴する事件として後世に語り継がれている。
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)、織田信長と石山本願寺(浄土真宗の総本山)との間で行われた約10年間にわたる攻防戦。一向宗の武装門徒(一向一揆)が石山(現・大阪城付近)に拠って信長軍と戦い続け、最終的には天皇の勅命による和議で終結した。日本刀と信仰が交差した戦国最長の籠城戦。
元亀3年5月4日(1572年6月5日)
元亀3年(1572年)、日向国(現・宮崎県)において、島津義弘率いる島津軍が伊東義祐率いる伊東軍を奇策で撃破した合戦。寡兵の島津義弘が「釣り野伏せ」の戦術で3倍以上の伊東軍を殲滅し、薩摩・日向の覇権をめぐる抗争で決定的な勝利を収めた。この戦いで義弘の武名は轟き、島津家の日向支配が確立された。「日向の桶狭間」とも呼ばれる薩隅日の合戦史上最重要の戦い。
元亀3年〜天正3年(1572年〜1575年)
元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)にかけて、美濃・岩村城をめぐり武田と織田が争った。女城主おつやの方は武田の智将・秋山虎繁との婚姻によって城を守ろうとしたが、長篠合戦後に信長方が城を奪還し、虎繁とおつやの方は処刑された。
元亀2年9月12日(1571年10月)
元亀2年(1571年)9月、織田信長が比叡山延暦寺(現・滋賀県大津市)を焼き討ちにし、堂宇・僧坊・門前町を灰燼に帰した事件。信長は僧俗男女を問わず山上の住人を殺戮し、千年以上の歴史を持つ「仏教の総本山」を一夜にして廃墟とした。この行為は当時の人々に深刻な衝撃を与え、「魔王」としての信長像を決定づけた。同時に、宗教権力と世俗権力の関係を根本から塗り替えた歴史的事件である。
元久2年6月22日(1205年)畠山重保・重忠父子討死、閏7月19日牧氏事件で北条時政失脚
元久2年(1205年)6月、北条時政の後妻・牧の方の讒言により謀反の疑いをかけられた武蔵の有力御家人・畠山重忠とその子重保が、北条義時率いる大軍に攻められ討たれた事件。翌月、重忠の無実が判明し、時政自身も牧氏事件で失脚した。重忠の居館・菅谷館は現在も国の史跡として残る。
享徳3年12月27日(1455年1月15日)〜文明14年(1482年)
享徳3年(1454年)に始まり約28年間続いた関東の大乱。第五代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害したことを発端とし、古河公方(足利成氏)と関東管領上杉氏・幕府の対立が続いた。この長期内戦が東国に戦国時代の到来を告げ、関東の刀工集団の活動にも大きな影響を与えた。
663-08-27
天智天皇2年(663年)、倭国は百済復興を支援して唐・新羅連合軍と朝鮮半島で激突し、壊滅的敗北を喫した。倭国史上最大規模の海外派兵が失敗に終わったこの戦いは、日本が大陸進出を断念して独自の国家建設に転換する歴史的転換点となった。東アジアの技術交流の拠点であった百済の滅亡と敗戦体験は、唐の鉄製武器・刀剣技術を日本が独自吸収・発展させる契機となり、後の太刀様式の確立に重要な影響を与えた。
1877年2月15日〜9月24日(明治10年)
明治10年(1877年)2月〜9月、西郷隆盛を盟主とする薩摩士族が新政府に反乱した最後の士族反乱。「刀対銃」の象徴として知られ、城山の戦いでの西郷の自刃は「最後の武士」の終焉を告げた。廃刀令(1876年)直後の武士道の最後の炎。
1876年10月24日(明治9年)
明治9年(1876年)10月、熊本の旧士族集団「敬神党(神風連)」が廃刀令・秩禄処分に抗議して兵器近代化に反発し、刀と槍のみで熊本鎮台を夜襲した反乱。近代的銃火器を「不浄」として拒否した神道的思想と武士の誇りが交錯した、日本近代史上最も異質な反乱のひとつ。
1868年8〜9月(慶応4年8〜9月)
慶応4年(1868年)8〜9月、戊辰戦争の一環として行われた会津藩と新政府軍の決戦。鶴ヶ城(会津若松城)を舞台に繰り広げられた激戦は、白虎隊の悲劇とともに「武士の最期」を象徴する戦いとして後世に伝えられた。
1868年7月4日(慶応4年5月15日)
慶応4年(1868年)5月、上野・東叡山寛永寺を拠点とした彰義隊が新政府軍と激突した戊辰戦争最初の江戸市街戦。わずか半日で彰義隊は壊滅し、旧幕府の抵抗勢力は東北へと退いた。
1868年5〜9月(慶応4年5〜9月)
慶応4年(1868年)5〜9月、越後国長岡藩が奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦った戊辰戦争。家老・河井継之助がガトリング砲を駆使して新政府軍を苦しめ、「最後の武士」とも称される壮絶な戦いを展開した。
1864年7月8日(元治元年6月5日)
元治元年(1864年)6月、京都・池田屋旅館において、新選組が尊王攘夷派志士の密議を急襲した事件。近藤勇・沖田総司・土方歳三らが活躍し、倒幕運動の一時的頓挫をもたらした幕末最大の剣客事件。
1864-09-05
文久3年〜元治元年(1863〜1864年)、長州藩が外国船を砲撃したことに対し、英米仏蘭4カ国連合艦隊が下関を報復攻撃した戦争。元治元年(1864年)9月5日(旧暦8月5日)、17隻の連合艦隊が関門海峡の長州砲台を集中砲撃して制圧し、長州軍は壊滅的な敗北を喫した。この戦争は長州藩に攘夷の不可能性を悟らせ、倒幕・明治維新への転換点となった。
1864-03-27
元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷過激派「天狗党」が藤田小四郎・武田耕雲斎の指導のもと筑波山に挙兵し、幕府軍・佐幕派諸藩と戦った幕末水戸藩最大の内乱。京都をめざして西上した天狗党は、越前・敦賀で降伏し、武田耕雲斎ら353名が処刑された。攘夷思想の発祥地・水戸藩を舞台にした、尊攘運動の悲劇的な末路。
1863-08-15
文久3年(1863年)7月2日〜3日(旧暦)、薩摩藩とイギリス艦隊が鹿児島湾で交戦した戦争。生麦事件の賠償を求めて来航した英国艦隊7隻に対し、薩摩砲台が砲撃を開始。英艦は薩摩の艦船を焼き払い市街を砲撃したが、薩摩も激しく抵抗し英艦を大破させた。この戦争を機に薩摩は攘夷の非現実性を悟り、英国との関係を改善して倒幕・近代化路線に転換した。
1637年10月25日〜1638年4月12日(寛永14年10月25日〜寛永15年2月28日)
寛永14〜15年(1637〜1638年)、肥前国島原・天草地方のキリシタン農民が天草四郎時貞を大将として幕府に反乱。約37,000人が原城に籠城し、12万の幕府軍と激戦の末に鎮圧された。江戸時代最大かつ最後の大規模一揆であり、鎖国政策を決定づけた事件。
1615年5月(慶長20年4月〜5月)
慶長20年(1615年)5月、徳川家康が豊臣家を滅ぼした最後の決戦。真田幸村が家康本陣へ決死の突撃を敢行し、その壮絶な最期は「日本一の兵(つわもの)」と称えられた。
1614年10月〜12月(慶長19年9月〜12月)
慶長19年(1614年)10月〜12月、徳川家康が豊臣秀頼の居城・大坂城を攻囲した合戦。真田幸村が「真田丸」を築いて徳川軍を撃退し、砲撃戦・和議交渉が絡み合う複雑な攻防戦となった。翌年の夏の陣への直接の前哨戦。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の決戦が美濃国関ヶ原で行われた。東軍・徳川家康と西軍・石田三成が激突し、わずか一日で日本の覇権が決した歴史的大合戦。
1597-01 〜 1598-12
慶長2年(1597年)、文禄の役から4年の休戦を経て豊臣秀吉が再び朝鮮へ大軍を送り込んだ。蔚山城の籠城戦(加藤清正)、島津義弘の露梁海峡の戦いにおける決死の退き口など、日本刀と鉄砲が混在する近世戦争の実態を刻んだ戦役である。秀吉の病死によって戦争目的を失い全軍撤退。朝鮮半島に甚大な人的・文化的損害を与えた。
1590年4月〜8月(天正18年3月〜7月)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が大軍を率いて北条氏の本拠・小田原城を包囲した合戦。3ヶ月以上にわたる長期包囲の末、北条氏政・氏直父子が降伏し、氏政が切腹して、100年続いた後北条氏が滅亡。秀吉の天下統一が完成した歴史的事件。