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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
138件のイベント
1877年2月15日〜9月24日(明治10年)
明治10年(1877年)2月〜9月、西郷隆盛を盟主とする薩摩士族が新政府に反乱した最後の士族反乱。「刀対銃」の象徴として知られ、城山の戦いでの西郷の自刃は「最後の武士」の終焉を告げた。廃刀令(1876年)直後の武士道の最後の炎。
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1876年10月24日(明治9年)
明治9年(1876年)10月、熊本の旧士族集団「敬神党(神風連)」が廃刀令・秩禄処分に抗議して兵器近代化に反発し、刀と槍のみで熊本鎮台を夜襲した反乱。近代的銃火器を「不浄」として拒否した神道的思想と武士の誇りが交錯した、日本近代史上最も異質な反乱のひとつ。
1868年8〜9月(慶応4年8〜9月)
慶応4年(1868年)8〜9月、戊辰戦争の一環として行われた会津藩と新政府軍の決戦。鶴ヶ城(会津若松城)を舞台に繰り広げられた激戦は、白虎隊の悲劇とともに「武士の最期」を象徴する戦いとして後世に伝えられた。
1868年7月4日(慶応4年5月15日)
慶応4年(1868年)5月、上野・東叡山寛永寺を拠点とした彰義隊が新政府軍と激突した戊辰戦争最初の江戸市街戦。わずか半日で彰義隊は壊滅し、旧幕府の抵抗勢力は東北へと退いた。
1868年5〜9月(慶応4年5〜9月)
慶応4年(1868年)5〜9月、越後国長岡藩が奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦った戊辰戦争。家老・河井継之助がガトリング砲を駆使して新政府軍を苦しめ、「最後の武士」とも称される壮絶な戦いを展開した。
1864年7月8日(元治元年6月5日)
元治元年(1864年)6月、京都・池田屋旅館において、新選組が尊王攘夷派志士の密議を急襲した事件。近藤勇・沖田総司・土方歳三らが活躍し、倒幕運動の一時的頓挫をもたらした幕末最大の剣客事件。
1864-09-05
文久3年〜元治元年(1863〜1864年)、長州藩が外国船を砲撃したことに対し、英米仏蘭4カ国連合艦隊が下関を報復攻撃した戦争。元治元年(1864年)9月5日(旧暦8月5日)、17隻の連合艦隊が関門海峡の長州砲台を集中砲撃して制圧し、長州軍は壊滅的な敗北を喫した。この戦争は長州藩に攘夷の不可能性を悟らせ、倒幕・明治維新への転換点となった。
1864-03-27
元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷過激派「天狗党」が藤田小四郎・武田耕雲斎の指導のもと筑波山に挙兵し、幕府軍・佐幕派諸藩と戦った幕末水戸藩最大の内乱。京都をめざして西上した天狗党は、越前・敦賀で降伏し、武田耕雲斎ら353名が処刑された。攘夷思想の発祥地・水戸藩を舞台にした、尊攘運動の悲劇的な末路。
1863-08-15
文久3年(1863年)7月2日〜3日(旧暦)、薩摩藩とイギリス艦隊が鹿児島湾で交戦した戦争。生麦事件の賠償を求めて来航した英国艦隊7隻に対し、薩摩砲台が砲撃を開始。英艦は薩摩の艦船を焼き払い市街を砲撃したが、薩摩も激しく抵抗し英艦を大破させた。この戦争を機に薩摩は攘夷の非現実性を悟り、英国との関係を改善して倒幕・近代化路線に転換した。
1637年10月25日〜1638年4月12日(寛永14年10月25日〜寛永15年2月28日)
寛永14〜15年(1637〜1638年)、肥前国島原・天草地方のキリシタン農民が天草四郎時貞を大将として幕府に反乱。約37,000人が原城に籠城し、12万の幕府軍と激戦の末に鎮圧された。江戸時代最大かつ最後の大規模一揆であり、鎖国政策を決定づけた事件。
1615年5月(慶長20年4月〜5月)
慶長20年(1615年)5月、徳川家康が豊臣家を滅ぼした最後の決戦。真田幸村が家康本陣へ決死の突撃を敢行し、その壮絶な最期は「日本一の兵(つわもの)」と称えられた。
1614年10月〜12月(慶長19年9月〜12月)
慶長19年(1614年)10月〜12月、徳川家康が豊臣秀頼の居城・大坂城を攻囲した合戦。真田幸村が「真田丸」を築いて徳川軍を撃退し、砲撃戦・和議交渉が絡み合う複雑な攻防戦となった。翌年の夏の陣への直接の前哨戦。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の決戦が美濃国関ヶ原で行われた。東軍・徳川家康と西軍・石田三成が激突し、わずか一日で日本の覇権が決した歴史的大合戦。
1597-01 〜 1598-12
慶長2年(1597年)、文禄の役から4年の休戦を経て豊臣秀吉が再び朝鮮へ大軍を送り込んだ。蔚山城の籠城戦(加藤清正)、島津義弘の露梁海峡の戦いにおける決死の退き口など、日本刀と鉄砲が混在する近世戦争の実態を刻んだ戦役である。秀吉の病死によって戦争目的を失い全軍撤退。朝鮮半島に甚大な人的・文化的損害を与えた。
1590年4月〜8月(天正18年3月〜7月)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が大軍を率いて北条氏の本拠・小田原城を包囲した合戦。3ヶ月以上にわたる長期包囲の末、北条氏政・氏直父子が降伏し、氏政が切腹して、100年続いた後北条氏が滅亡。秀吉の天下統一が完成した歴史的事件。
1587年1月20日(天正14年12月12日)
天正14年(1586年)12月、豊臣秀吉の九州征伐の先鋒を務めた仙石秀久・長宗我部信親らが、豊後国戸次川(現・大分市)で島津軍と戦い大敗した。長宗我部元親の嫡男・信親が戦死し、四国一の猛将の死が元親と長宗我部家に深刻な打撃を与えた合戦。
1585年11月17日(天正13年10月8日)
天正13年(1585年)11月、奥州の雄・伊達政宗が、佐竹・蘆名・二階堂・白河連合軍と陸奥国の人取橋(現・福島県本宮市)で激突した。数倍の敵に包囲されながら奮戦した17歳の政宗は、辛くも敗退を避けた。東北戦国史の一大転換点となった合戦。
1584年3月24日(天正12年3月24日)
天正12年(1584年)3月、九州の覇権をかけた龍造寺隆信と島津・有馬連合軍の決戦。肥前国沖田畷(現・長崎県島原市)で、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信が奇策を用いた島津軍に討ち取られた。九州戦国史の転換点となった合戦。
1584年3月〜11月(天正12年)
天正12年(1584年)、本能寺の変後の後継者争いをめぐり、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が激突した合戦。長久手において家康軍が秀吉方の池田恒興・森長可らを討ち取る局地的大勝を収めたが、軍事的決着はつかず、政治交渉で秀吉が優位を確立した。
1583年4月21日(天正11年4月20日)
天正11年(1583年)4月、近江国賤ヶ岳(現・滋賀県長浜市)周辺で繰り広げられた羽柴秀吉と柴田勝家の覇権争い。本能寺の変後の「織田家後継者」をめぐる武将間の権力闘争であり、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる七人の猛将の活躍で知られる。
1581年(天正9年)6月〜10月
天正9年(1581年)、羽柴秀吉が鳥取城を包囲し、兵糧攻めによって城兵・城下民を極限の飢餓状態に追い込んで落城させた兵糧攻め(渇え殺し)。秀吉の天才的な作戦立案と、城将・吉川経家の悲劇的な死が織り成す戦国最大の苛烈な籠城戦のひとつ。城内では人肉食まで起きたとされる凄惨な籠城の末、吉川経家は自刃して城兵の助命を実現した。
1581-09
天正9年(1581年)9月、織田信長は次男・信雄(のぶかつ)を総大将に任じ、4万を超える大軍で伊賀国に侵攻した。二年前の第一次侵攻の失敗(天正7年)の雪辱を果たすべく、信長自ら作戦を指揮した「第二次天正伊賀の乱」である。忍びの里として知られる伊賀は組織的な抵抗を試みたが、圧倒的兵力差の前に数日で壊滅した。この戦いは、武士の刀剣文化と忍者の暗器・短刀文化が正面から衝突した珍しい歴史事例である。
1578年11月12日(天正6年11月11日)
天正6年(1578年)11月、日向国(現・宮崎県)で島津義久率いる島津軍が大友宗麟の大軍を撃破した合戦。決戦地の名から「高城川の戦い」とも呼ばれる。島津の「釣り野伏せ」の前に大友軍は壊滅し、敗走中に耳川で多数が溺死した。「九州三国志」の大きな転換点となり、大友氏の衰退と島津氏の九州制覇への道が開かれた。
1577-09-01
天正4年(1576年)秋〜天正5年(1577年)9月、上杉謙信が能登国の拠点・七尾城(現・石川県七尾市)を包囲・攻略した攻城戦。謙信は一年近い長期包囲の末、城内の疫病流行と内通者の裏切りによって七尾城を陥落させ、能登国をほぼ平定した。七尾城陥落の報は謙信が手取川の戦いで織田信長の軍勢を破る直前のことであり、謙信の北陸制覇の頂点を示す戦いである。