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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
138件のイベント
天文元年(1532年)8月
天文元年(1532年)8月、細川晴元・六角定頼・法華一揆の連合軍が一向一揆の本拠・山科本願寺を焼き払い壊滅させた享禄・天文の乱の決定的事件。本願寺本拠の大坂移転と石山合戦への布石となった。
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天文9年(1540年)秋
天文9年(1540年)秋、安芸国郡山城(現・広島県安芸高田市)において、毛利元就が尼子晴久率いる出雲の大軍の攻撃を撃退した合戦。兵力で圧倒的に劣る毛利軍が、元就の巧みな守城戦と反撃により尼子の侵攻を退け、毛利氏が中国地方の覇者へと成長する転換点となった歴史的勝利。
天文7年10月7日(1538年10月23日)
天文7年(1538年)、下総国国府台で小弓公方足利義明・里見義堯らの連合軍と後北条氏の北条氏綱・氏康父子が激突した戦い。義明の戦死により小弓公方は滅亡し、北条氏が下総方面へ勢力を拡大する契機となった。
天文5年7月(1536年)
天文5年(1536年)7月、比叡山延暦寺の僧兵が六角定頼の軍事支援を受けて京都の日蓮宗21本山をすべて焼き討ちにした宗教戦争。応仁の乱を上回るともいわれる大規模な焦土をもたらし、法華宗信徒は6年間京都から追放された。戦国時代における宗教・武力・大名権力の交錯を示す事件。
天文17年3月19日(1548年)
天文17年(1548年)3月19日、三河国額田郡小豆坂(現・愛知県岡崎市)において、尾張の織田信秀と、駿河・遠江・三河を治める今川義元(軍を率いたのは太原雪斎)が激突した合戦。岡崎城主・松平広忠の後見をめぐって尾張・織田氏と駿河・今川氏が三河の帰属を争う中で発生し、今川方の勝利により今川氏の三河支配が確定した。二度にわたり同地で戦われたとされ、1548年の戦いは「第二次小豆坂の戦い」とも呼ばれる。
天文17年2月(1548年)
天文17年(1548年)2月、信濃国小県郡上田原(現・長野県上田市)において、武田信玄と村上義清が激突した合戦。武田軍が大敗し、信玄は右太腿に矢傷を負って本陣に退くという稀有な苦戦を喫した。軍師・板垣信方と甘利虎泰という二将を失った武田軍にとって、戦国史上屈指の屈辱的敗北として記憶される。
天文15年4月20日(1546年5月19日)
天文15年(1546年)、北条氏康が80,000の包囲軍に対してわずか8,000の兵で夜間奇襲を敢行した関東最大の奇襲戦。北条・上杉・足利が三つ巴で争う中、氏康の大胆な戦略が上杉朝定・足利晴氏連合軍を壊滅させ、北条氏の関東覇権を確立した。
天文11年(1542年)6月〜天文17年(1548年)9月
天文11年(1542年)から17年(1548年)にかけ、伊達家当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗が家督と外交路線を巡って対立し、南奥羽の諸大名を二分する6年におよぶ大乱に発展した。将軍・足利義輝の仲裁で和睦し、晴宗は本拠を米沢城へ移して体制を再編、後の伊達政宗による奥州制覇の前史となった。
天保8年(1837年)2月19日
天保8年(1837年)2月19日、元大坂東町奉行所与力・大塩平八郎が民衆救済を掲げて大坂で蜂起。江戸時代最大規模の都市反乱として、幕末志士にも多大な影響を与えた。
元治元年7月19日(1864年8月20日)
元治元年(1864年)7月、京都御所の禁門(蛤御門)で長州藩士が薩摩・会津連合軍と激突した幕末最大の市街戦。「元治の大火(どんどん焼け)」で京都の大半が焼失し、長州藩は「朝敵」に指定された。新選組が鎮圧に参戦し、幕末の政治対立が武力衝突に至った転換点。
元暦2年2月19日(1185年3月22日)
元暦2年(1185年)2月、源義経が四国・屋島の平家軍を奇襲した源平合戦の重要な戦い。嵐の中の渡海、那須与一の扇の的、平知盛の奮戦——波打ち際での海陸一体戦は義経の天才的用兵を示し、壇ノ浦への布石となった。
元弘元年8月(1331年)〜元弘3年5月(1333年5月)
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が幕府討幕を企て笠置山で挙兵した乱。楠木正成が千早城に籠城して幕府大軍を翻弄し、足利尊氏・新田義貞の離反によって元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡。約140年続いた武家政権が終焉し、建武の新政へと続く中世最大の政変を引き起こした。
元弘3年5月8日〜22日(1333年6月3日〜16日)
元弘3年(1333年)5月、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕の令旨を受けて挙兵し、鎌倉幕府の本拠・鎌倉を陥落させた歴史的な戦い。稲村ヶ崎での「引き潮」の奇跡と北条一族の集団自害(東勝寺合戦)——鎌倉幕府の滅亡は、武士の時代の第一の転換点として日本史に刻まれている。
元弘3年5月7日(1333年5月7日)
元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(尊氏)が幕府への叛旗を翻して京都の六波羅探題を攻略した事件。承久の乱(1221年)以来110年余にわたって京都を支配した幕府の「西の目」が崩壊し、同月22日の鎌倉幕府滅亡への決定的な前奏曲となった。正宗が活躍した鎌倉末期の刀剣黄金期が終わり、南北朝の大太刀時代への転換を告げる歴史的事件。
元弘3年2月〜5月(1333年)
元弘3年(1333年)、楠木正成が金剛山(現・大阪府千早赤阪村)の天嶮に築いた千早城にわずか数百の兵で籠城し、幕府の数万の大軍を数ヶ月にわたって撃退した。この奇策と執念の籠城戦が鎌倉幕府軍を釘付けにした間、新田義貞が鎌倉を攻略し、幕府は滅亡した。千早城の戦いは「少数対多数」の戦術的機知が歴史を動かした奇跡の籠城として刀剣・軍記文化に深く刻まれている。
元亀元年6月28日(1570年7月30日)
元亀元年(1570年)6月、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江国姉川河畔で激突した野戦。家康の家臣・榊原康政らの奮戦で戦局を転じ、織田・徳川軍が勝利。浅井・朝倉同盟の瓦解を加速させた合戦。
元亀元年4月(1570年)
元亀元年(1570年)4月、越前国敦賀の金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)において、織田信長が朝倉義景討伐のために越前に侵攻中、同盟者・浅井長政の突然の裏切りによって挟撃の危機に陥り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)を殿軍に残して強行突破した撤退戦。秀吉が「天下人への足がかり」を掴んだとも言われる「金ヶ崎の退き口」は戦国屈指の名撤退として語り継がれる。
元亀元年(1570年)〜天正二年(1574年)
元亀元年(1570年)から天正二年(1574年)にかけて、伊勢国長島(現・三重県桑名市)で勃発した一向宗(浄土真宗)門徒の大規模な武装蜂起。織田信長は三度の長島攻めを行い、第三次長島攻め(1574年)でついに制圧したが、その際に行った降伏した門徒の大量虐殺は、信長の苛烈な戦い方を象徴する事件として後世に語り継がれている。
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)、織田信長と石山本願寺(浄土真宗の総本山)との間で行われた約10年間にわたる攻防戦。一向宗の武装門徒(一向一揆)が石山(現・大阪城付近)に拠って信長軍と戦い続け、最終的には天皇の勅命による和議で終結した。日本刀と信仰が交差した戦国最長の籠城戦。
元亀3年5月4日(1572年6月5日)
元亀3年(1572年)、日向国(現・宮崎県)において、島津義弘率いる島津軍が伊東義祐率いる伊東軍を奇策で撃破した合戦。寡兵の島津義弘が「釣り野伏せ」の戦術で3倍以上の伊東軍を殲滅し、薩摩・日向の覇権をめぐる抗争で決定的な勝利を収めた。この戦いで義弘の武名は轟き、島津家の日向支配が確立された。「日向の桶狭間」とも呼ばれる薩隅日の合戦史上最重要の戦い。
元亀3年〜天正3年(1572年〜1575年)
元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)にかけて、美濃・岩村城をめぐり武田と織田が争った。女城主おつやの方は武田の智将・秋山虎繁との婚姻によって城を守ろうとしたが、長篠合戦後に信長方が城を奪還し、虎繁とおつやの方は処刑された。
元亀2年9月12日(1571年10月)
元亀2年(1571年)9月、織田信長が比叡山延暦寺(現・滋賀県大津市)を焼き討ちにし、堂宇・僧坊・門前町を灰燼に帰した事件。信長は僧俗男女を問わず山上の住人を殺戮し、千年以上の歴史を持つ「仏教の総本山」を一夜にして廃墟とした。この行為は当時の人々に深刻な衝撃を与え、「魔王」としての信長像を決定づけた。同時に、宗教権力と世俗権力の関係を根本から塗り替えた歴史的事件である。
享徳3年12月27日(1455年1月15日)〜文明14年(1482年)
享徳3年(1454年)に始まり約28年間続いた関東の大乱。第五代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害したことを発端とし、古河公方(足利成氏)と関東管領上杉氏・幕府の対立が続いた。この長期内戦が東国に戦国時代の到来を告げ、関東の刀工集団の活動にも大きな影響を与えた。
663-08-27
天智天皇2年(663年)、倭国は百済復興を支援して唐・新羅連合軍と朝鮮半島で激突し、壊滅的敗北を喫した。倭国史上最大規模の海外派兵が失敗に終わったこの戦いは、日本が大陸進出を断念して独自の国家建設に転換する歴史的転換点となった。東アジアの技術交流の拠点であった百済の滅亡と敗戦体験は、唐の鉄製武器・刀剣技術を日本が独自吸収・発展させる契機となり、後の太刀様式の確立に重要な影響を与えた。