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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
150件のイベント
天正10年6月13日(1582年7月2日)
天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変からわずか11日後に起きた「中国大返し」の到達点。羽柴秀吉が明智光秀を山城国山崎(現・大阪府三島郡)で撃破し、信長亡き後の覇権を手中にした。天王山をめぐる攻防から「天下分け目の戦い」という言葉が生まれた合戦。
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天正10年6月〜10月(1582年7月〜11月)
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変による織田信長の横死を受け、空白となった甲斐・信濃・上野の旧武田領を巡って徳川家康・北条氏政・上杉景勝の三者が争った一連の軍事行動。同年を「壬午」(じんご)の年とすることから「天正壬午の乱」と呼ばれる。最終的に家康が甲斐・信濃を制し、三河・遠江に加えて新たな大領主へと飛躍するきっかけとなった戦略的分岐点。
天正10年4月〜6月2日(1582年5月〜6月21日)
天正10年(1582年)4月〜6月、備中国高松城(現・岡山市北区高松)において、羽柴秀吉が清水宗治の籠もる高松城を水攻めにした攻城戦。秀吉が足守川を堰き止めて高松城を水没させた「水攻め」は日本史上最大規模の工事とも言われる。本能寺の変の報を受けた秀吉が「中国大返し」で京都に引き返すきっかけとなった歴史的合戦。
天正10年3月2日(1582年3月2日)
天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐の中で、織田信忠率いる大軍が信濃・高遠城を包囲。城主・仁科盛信はわずか3000未満の兵で抗戦するも一日で落城し、自刃して果てた。武田家滅亡を決定づけた最後の激戦として知られる。
天正10年3月11日(1582年4月3日)
天正10年(1582年)3月、武田勝頼が甲斐国天目山(田野)で織田・徳川連合軍に追い詰められ自刃した合戦。信玄亡きあとわずか10年で滅亡した武田家の最期を告げる悲壮な戦いであり、戦国最強と謳われた武田軍団の終焉を象徴する。
天正10年(1582年)8月
天正10年(1582年)8月、長宗我部元親が阿波の三好・十河連合軍を中富川で大破した合戦。本能寺の変直後の混乱を突いた元親の決断と、一領具足の強兵による電撃作戦が四国統一の決定的な一手となった。
天正10年(1582年)6月16日〜19日
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死した直後、上野を治めていた織田家の重臣・滝川一益と、関東の雄・北条氏直の軍勢が武蔵・上野国境の神流川で激突した。戦国期の関東地方で最大規模の野戦とされ、約1万8千の滝川勢は約5万6千の北条勢に大敗、一益は本拠の伊勢長島まで敗走した。信長死後の権力の空白が関東に生んだ大合戦である。
天文元年(1532年)8月
天文元年(1532年)8月、細川晴元・六角定頼・法華一揆の連合軍が一向一揆の本拠・山科本願寺を焼き払い壊滅させた享禄・天文の乱の決定的事件。本願寺本拠の大坂移転と石山合戦への布石となった。
天文9年(1540年)秋
天文9年(1540年)秋、安芸国郡山城(現・広島県安芸高田市)において、毛利元就が尼子晴久率いる出雲の大軍の攻撃を撃退した合戦。兵力で圧倒的に劣る毛利軍が、元就の巧みな守城戦と反撃により尼子の侵攻を退け、毛利氏が中国地方の覇者へと成長する転換点となった歴史的勝利。
天文7年10月7日(1538年10月23日)
天文7年(1538年)、下総国国府台で小弓公方足利義明・里見義堯らの連合軍と後北条氏の北条氏綱・氏康父子が激突した戦い。義明の戦死により小弓公方は滅亡し、北条氏が下総方面へ勢力を拡大する契機となった。
天文5年7月(1536年)
天文5年(1536年)7月、比叡山延暦寺の僧兵が六角定頼の軍事支援を受けて京都の日蓮宗21本山をすべて焼き討ちにした宗教戦争。応仁の乱を上回るともいわれる大規模な焦土をもたらし、法華宗信徒は6年間京都から追放された。戦国時代における宗教・武力・大名権力の交錯を示す事件。
天文19年9月9日〜10月1日(1550年)
天文19年(1550年)9月から10月にかけて、信濃国小県郡の砥石城をめぐって武田晴信(信玄)と村上義清が争った合戦。攻略に失敗した武田軍は撤退戦で約1000人の死傷者と重臣横田高松を失い、信玄生涯最大の敗北と呼ばれる。翌年、真田幸隆の調略により砥石城は無血で武田方に帰した。
天文17年3月19日(1548年)
天文17年(1548年)3月19日、三河国額田郡小豆坂(現・愛知県岡崎市)において、尾張の織田信秀と、駿河・遠江・三河を治める今川義元(軍を率いたのは太原雪斎)が激突した合戦。岡崎城主・松平広忠の後見をめぐって尾張・織田氏と駿河・今川氏が三河の帰属を争う中で発生し、今川方の勝利により今川氏の三河支配が確定した。二度にわたり同地で戦われたとされ、1548年の戦いは「第二次小豆坂の戦い」とも呼ばれる。
天文17年2月(1548年)
天文17年(1548年)2月、信濃国小県郡上田原(現・長野県上田市)において、武田信玄と村上義清が激突した合戦。武田軍が大敗し、信玄は右太腿に矢傷を負って本陣に退くという稀有な苦戦を喫した。軍師・板垣信方と甘利虎泰という二将を失った武田軍にとって、戦国史上屈指の屈辱的敗北として記憶される。
天文15年4月20日(1546年5月19日)
天文15年(1546年)、北条氏康が80,000の包囲軍に対してわずか8,000の兵で夜間奇襲を敢行した関東最大の奇襲戦。北条・上杉・足利が三つ巴で争う中、氏康の大胆な戦略が上杉朝定・足利晴氏連合軍を壊滅させ、北条氏の関東覇権を確立した。
天文11年(1542年)6月〜天文17年(1548年)9月
天文11年(1542年)から17年(1548年)にかけ、伊達家当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗が家督と外交路線を巡って対立し、南奥羽の諸大名を二分する6年におよぶ大乱に発展した。将軍・足利義輝の仲裁で和睦し、晴宗は本拠を米沢城へ移して体制を再編、後の伊達政宗による奥州制覇の前史となった。
天保8年(1837年)2月19日
天保8年(1837年)2月19日、元大坂東町奉行所与力・大塩平八郎が民衆救済を掲げて大坂で蜂起。江戸時代最大規模の都市反乱として、幕末志士にも多大な影響を与えた。
元治元年7月19日(1864年8月20日)
元治元年(1864年)7月、京都御所の禁門(蛤御門)で長州藩士が薩摩・会津連合軍と激突した幕末最大の市街戦。「元治の大火(どんどん焼け)」で京都の大半が焼失し、長州藩は「朝敵」に指定された。新選組が鎮圧に参戦し、幕末の政治対立が武力衝突に至った転換点。
元暦2年2月19日(1185年3月22日)
元暦2年(1185年)2月、源義経が四国・屋島の平家軍を奇襲した源平合戦の重要な戦い。嵐の中の渡海、那須与一の扇の的、平知盛の奮戦——波打ち際での海陸一体戦は義経の天才的用兵を示し、壇ノ浦への布石となった。
元弘元年8月(1331年)〜元弘3年5月(1333年5月)
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が幕府討幕を企て笠置山で挙兵した乱。楠木正成が千早城に籠城して幕府大軍を翻弄し、足利尊氏・新田義貞の離反によって元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡。約140年続いた武家政権が終焉し、建武の新政へと続く中世最大の政変を引き起こした。
元弘3年5月8日〜22日(1333年6月3日〜16日)
元弘3年(1333年)5月、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕の令旨を受けて挙兵し、鎌倉幕府の本拠・鎌倉を陥落させた歴史的な戦い。稲村ヶ崎での「引き潮」の奇跡と北条一族の集団自害(東勝寺合戦)——鎌倉幕府の滅亡は、武士の時代の第一の転換点として日本史に刻まれている。
元弘3年5月7日(1333年5月7日)
元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(尊氏)が幕府への叛旗を翻して京都の六波羅探題を攻略した事件。承久の乱(1221年)以来110年余にわたって京都を支配した幕府の「西の目」が崩壊し、同月22日の鎌倉幕府滅亡への決定的な前奏曲となった。正宗が活躍した鎌倉末期の刀剣黄金期が終わり、南北朝の大太刀時代への転換を告げる歴史的事件。
元弘3年2月〜5月(1333年)
元弘3年(1333年)、楠木正成が金剛山(現・大阪府千早赤阪村)の天嶮に築いた千早城にわずか数百の兵で籠城し、幕府の数万の大軍を数ヶ月にわたって撃退した。この奇策と執念の籠城戦が鎌倉幕府軍を釘付けにした間、新田義貞が鎌倉を攻略し、幕府は滅亡した。千早城の戦いは「少数対多数」の戦術的機知が歴史を動かした奇跡の籠城として刀剣・軍記文化に深く刻まれている。
元亀元年6月28日(1570年7月30日)
元亀元年(1570年)6月、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江国姉川河畔で激突した野戦。家康の家臣・榊原康政らの奮戦で戦局を転じ、織田・徳川軍が勝利。浅井・朝倉同盟の瓦解を加速させた合戦。