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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
69件のイベント
永禄8年〜永禄9年(1565年〜1566年)
永禄8年(1565年)から翌年にかけて、毛利元就が出雲国の尼子氏の居城・月山富田城を包囲・攻略した合戦。難攻不落として名高い月山富田城を1年余りに及ぶ兵糧攻めで陥落させた元就は、中国地方の覇権を確立した。尼子氏は滅亡し、出雲は毛利領となった。
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永禄7年(1564年)正月3日
永禄7年(1564年)正月、北条氏康・氏政父子が率いる後北条軍が里見義弘の軍を国府台(現・千葉県市川市)で大破した合戦。里見氏の上総侵攻を阻止し、北条氏の関東支配を確固たるものとした戦いであり、戦国東国史における重要な節目である。
永禄12年10月(1569年)
永禄12年(1569年)10月、武田信玄の甲相駿三国同盟破棄後の相模侵攻において、小田原包囲から撤退する武田軍を追撃した北条軍との激突。三増峠(現・神奈川県愛甲郡愛川町)において武田軍が北条追撃隊を破り、甲斐への帰還に成功した合戦。山県昌景が活躍した赤備えの騎馬隊による突撃が名高い。
永禄11年9月12日(1568年)
永禄11年(1568年)9月、上洛を目指す織田信長の大軍が南近江の六角氏を攻撃。支城・箕作城が一夜で陥落すると、六角義賢・義治父子は本城・観音寺城を放棄して逃走した。日本最大級の中世山城が無血で開城した象徴的な事件。
永禄10年4月18日〜10月11日(1567年)
永禄10年(1567年)4月から10月にかけて、松永久秀・三好義継連合軍と三好三人衆・筒井順慶連合軍が奈良で激突。10月10日夜の松永軍の夜襲を機に出火し、東大寺大仏殿と大仏の仏頭が焼失する未曽有の惨事となった。
永正14年(1517年)10月22日
永正14年(1517年)、安芸国で起こった有田中井手の戦いは、若き毛利元就の初陣として名高い。尼子氏の支援を受けた安芸の旧守護・武田元繁が吉川氏の有田城を攻めたのに対し、毛利・吉川連合軍が迎え撃った合戦で、寡兵の連合軍が武田方の勇将・熊谷元直を討ち取り、さらに大将・武田元繁をも流れ矢で斃して大勝した。「西の桶狭間」とも称される。
文禄元年4月〜文禄2年5月(1592年5月〜1593年6月)
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が大陸征服を目指して朝鮮半島に15万の大軍を送り込んだ「文禄・慶長の役」の第一次出兵。加藤清正・小西行長らが電撃的に漢城・平壌を占領したが、李舜臣の水軍・明の援軍によって反撃され、1593年に停戦。日本刀が朝鮮・中国の兵器と初めて大規模に激突した歴史的戦争。
慶長5年9月(1600年)
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いと同時進行で奥羽の地において上杉景勝と最上義光・伊達政宗連合軍が激突した合戦。直江兼続率いる上杉軍が長谷堂城を攻め、最上方の頑強な抵抗と関ヶ原敗報を受けて撤退した。
慶長5年8月22〜23日(1600年9月27〜28日)
慶長5年8月22〜23日(1600年)、美濃国岐阜城(現・岐阜県岐阜市)において、東軍・福島正則・池田輝政らが西軍・織田秀信(三法師)の守る岐阜城を二日で攻略した合戦。関ヶ原の戦いの前哨戦として重要な位置を占め、天下分け目の戦いに先立つ東軍の快勝が西軍の戦略的配置を大きく乱した。
慶長5年7月19日〜8月1日(1600年8月30日〜9月8日)
慶長5年(1600年)7月〜8月、関ヶ原の戦いの前哨戦として勃発した籠城戦。徳川家康の老臣・鳥居元忠が伏見城に立て籠もり、石田三成率いる西軍約4万に対して約1800の寡兵で十余日間防戦し、城と運命を共にした。元忠の忠義と玉砕が東軍諸将の士気を高め、関ヶ原の戦いへの序章となった。戦後、血で染まった廊下板は「血天井」として諸寺に移され、今も伏見城の壮絶な最期を伝える。
弘治2年8月24日(1556年9月27日)
弘治2年(1556年)8月24日、尾張国稲生(現・名古屋市西区)で勃発した、織田信長と弟・信行(信勝)の骨肉の戦い。信長はわずか700余の兵で信行・柴田勝家の2000余の大軍を破り、信長の覇権を尾張で確立した最初の実戦である。
弘治2年4月20日(1556年5月28日)
弘治2年(1556年)4月20日、美濃国長良川河畔(現・岐阜市)において、斎藤道三(さいとうどうさん)が実子・斎藤義龍(よしたつ)率いる軍勢と戦い討死した合戦。「美濃の蝮(まむし)」と恐れられた道三が、息子に裏切られて最後を遂げたこの戦いは、岳父・道三の支援を頼みにしていた織田信長に大きな衝撃を与えた。
天正元年8月(1573年8月)
天正元年(1573年)、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(近江国・現滋賀県)を総攻撃した合戦。小谷城は天下に名高い山城の要害であったが、信長の大軍と武将たちの連携攻撃の前に陥落。浅井長政は自刃し、浅井氏は滅亡した。この攻城戦は、信長の天下統一への道を大きく開くとともに、後の明智光秀による本能寺の変への遠因をはらんだ。
天正9年3月22日(1581年4月25日)
天正9年(1581年)3月22日、遠江国高天神城(現・静岡県掛川市)が徳川軍に落城。武田勝頼が籠城軍への救援を送れず、城将・岡部元信らは玉砕。武田の「天下無双の堅城」を守り切れなかった勝頼への武田家臣団の失望は決定的となり、翌年の武田氏滅亡への転機となった悲劇の攻城戦。
天正6年3月〜天正8年1月(1578〜1580年)
天正6〜8年(1578〜1580年)、播磨国三木城(現・兵庫県三木市)において、羽柴秀吉が別所長治の籠もる三木城を2年間にわたって兵糧攻めにした長期攻城戦。秀吉の「干殺し(ほしごろし)」戦術の代名詞となった合戦で、別所長治は城兵を助けるために自刃した。城兵を思う主君の覚悟と、刀による最期が後世に語り継がれる名場面。
天正6年3月〜天正7年3月(1578年〜1579年)
天正6年(1578年)、越後国の覇者・上杉謙信が急死したことを発端に、謙信の養嗣子・景勝(長尾景勝)と景虎(北条三郎)の間で勃発した上杉家の家督相続争い。越後を二分する内乱は約2年間続き、景勝の勝利で幕を閉じた。謙信の霊刀・山鳥毛や景勝が誇った刀剣コレクションが、戦乱の焦点ともなった。
天正5年9月23日(1577年11月3日)
天正5年(1577年)9月、上杉謙信が手取川(現・石川県)で織田信長の大軍を奇襲して壊滅させた伝説の戦い。謙信最晩年の大勝利として知られ、「越後の龍」の武威を天下に示した。しかし翌年の謙信急死により、その勝利は歴史の「if」となった。
天正5年10月(1577年)
天正5年(1577年)10月、大和国信貴山城(現・奈良県平群町)において、松永久秀が織田信長・信忠父子の軍勢に包囲され、天守爆破により自刃した攻城戦。茶釜「平蜘蛛」を城とともに爆破し壮絶な最期を遂げた久秀の姿は、「謀将の矜持」として後世に語り継がれる。
天正4年7月13日(1576年8月)・天正6年11月6日(1578年11月)
天正4年(1576年)と天正6年(1578年)の二度にわたり、摂津国木津川口(現・大阪市)沖で行われた水上合戦。毛利水軍の兵糧輸送を阻止しようとした信長の水軍が、第一次では壊滅的敗北を喫したが、第二次では九鬼嘉隆が建造した鉄甲船により毛利水軍を撃破。世界初の装甲艦による海戦として、日本の戦史に燦然と輝く。
天正4年(1576年)5月7日
天正4年(1576年)5月、石山合戦中に織田信長が大坂・天王寺で本願寺・三好康長の連合軍を迎撃した野戦。信長自身が鉄砲弾を受けて負傷しながら戦況を逆転させた激戦。
天正18年6月23日(1590年7月24日)
天正18年(1590年)、小田原征伐の一環として、上杉景勝・前田利家ら豊臣方別働隊約1万5千が北条氏照の居城・八王子城を攻略した戦い。城主不在の中、城代以下約3千が籠城したが一日で落城した。
天正18年5月〜同年7月(1590年6月〜8月)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、石田三成が武蔵国・忍城(現・埼玉県行田市)を水攻めで攻略しようとした籠城戦。城代・成田泰季、後に総大将・成田長親が率い、正木利英や甲斐姫も支えた約500の守備隊が、三成軍数万の猛攻と石田堤による水攻めに耐えて最後まで落城しなかった。小田原城開城後も孤立して戦い続けた忍城は「浮き城」と呼ばれ、日本三大水攻めの一つとして名高い。
天正17年6月5日(1589年7月17日)
天正17年(1589年)6月、伊達政宗が会津の蘆名氏を摺上原(現・福島県耶麻郡猪苗代町)で撃破し、蘆名氏を滅亡させた合戦。政宗はこの勝利で会津・陸奥の大半を掌握し、「奥州の覇者」として東国一の大大名に上り詰めた。東北における戦国時代の実質的な終焉を告げた合戦。
天正14年〜15年3月〜6月(1586年〜1587年)
天正14年(1586年)から15年(1587年)にかけて、豊臣秀吉が九州全土を平定した大規模軍事行動。島津義久は剃髪して降伏し、秀吉は九州国分によって諸大名の所領を再編。関東・奥州を残すのみとなる天下統一の総仕上げ段階を告げた。