※画像はイメージです。岩屋城
Iwaya Castle
岩屋城は天文年間(1530年代〜1550年代半ば)高橋鑑種築城と伝わる、天正15年(1587年)破却に築かれた九州の名城。城主は高橋鑑種(築城者)、高橋鎮種(紹運)(Takahashi Akitane (founder); Takahashi Shigetane (Jōun))。
概要
概要
岩屋城は、福岡県太宰府市北方、四王寺山系の岩屋山(標高281メートル、比高約230メートル)に築かれた山城である。大宰府防衛の要所に位置し、大友氏の筑前支配における重要拠点であった。天正14年(1586年)、城主・高橋紹運が島津の大軍を相手に戦った壮絶な籠城戦の舞台として知られる。
築城と城主変遷
天文年間(1530年代〜1550年代半ば)、大友氏の家臣・高橋鑑種によって築かれたと伝わる。鑑種は筑前国守護代として宝満城とともに岩屋城の城督を務めたが、のちに毛利氏方へ転じて大友宗麟に背き、城を追われた。その後、大友家臣・吉弘家の出身者が高橋家の名跡を継いで高橋鎮種(のちの紹運)を名乗り、岩屋城・宝満城の城主となった。紹運は立花道雪と並んで斜陽の大友家を支え続けた。天正14年(1586年)7月14日、九州制覇を目指し北上した島津忠長・伊集院忠棟・秋月種実らが率いる島津軍(兵力は2万〜5万など諸説ある)が岩屋城を攻囲した。紹運は籠城兵763名とともに約2週間にわたり抗戦し島津方に大きな損害を与えたが、7月27日に落城し、紹運以下城兵は全員討死したと伝わる。この抗戦は豊臣秀吉の九州平定軍が到着するまでの時間を稼いだとされ、紹運の実子である立花宗茂(道雪の娘婿・後継者)の武名を高める契機ともなった。翌天正15年(1587年)、城は破却された。
構造
本丸の周囲には帯曲輪が巡り、北背後には土塁と堀切が残る。南西下の二ノ丸には高橋紹運の墓がある。南東方向の尾根には無数の堀切・竪堀が刻まれ、東部では階段状に曲輪が連なり、南端には畝状竪堀群も残る。
現状
指定文化財にはなっていないが、本丸跡からは太宰府の街並みを一望でき、太宰府市の歴史観光地のひとつとなっている。二の丸付近の高橋紹運の墓は、今も多くの人が訪れる史跡である。
刀剣との関わり
見どころ
- 天文年間、高橋鑑種による築城と伝わる、大宰府防衛の要衝
- 高橋鎮種(紹運)が城主を継ぎ、立花道雪とともに斜陽の大友家の筑前支配を支えた
- 天正14年(1586年)、島津忠長ら率いる島津軍の攻撃に対し紹運以下763名が約2週間籠城、全員討死
- 紹運の奮戦は秀吉の九州平定軍到着までの時間を稼いだと伝わり、実子・立花宗茂の武名を高める契機となった
- 本丸跡・帯曲輪・堀切・畝状竪堀群などの遺構が残り、太宰府の街並みを一望できる
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。