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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
150件のイベント
延元3年/暦応元年閏7月2日(1338年8月17日)
延元3年/暦応元年閏7月2日(1338年8月17日)、越前国藤島の燈明寺畷で、南朝方の新田義貞が足利方・斯波高経の軍勢と遭遇戦を演じ、矢を受けて討死した戦い。総大将を失った新田勢は崩壊し、まもなく足利尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府が確立していく画期となった。
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寿永3年1月20日(1184年2月21日)
寿永3年(1184年)1月、源義仲(木曾義仲)が源頼朝の命を受けた義経・範頼の軍勢に敗れ、近江国粟津(現・滋賀県大津市)で討ち取られた戦い。「巴御前」との別れ、松原での一騎討ちを経て矢を受けた義仲が沼地に落馬し討たれたその最期は、軍記物語「平家物語」の白眉として語り継がれ、義仲・巴御前という「義と愛」の象徴とともに日本人の記憶に深く刻まれている。
寿永3年(1184年)1月、源義仲(木曾義仲)と源頼朝方の武将・源義経・範頼が激突した内乱。義仲は宇治川を天然の防衛線として布陣したが、梶原景季・佐々木高綱の「先陣争い」という日本史最大の武勇伝を経て、頼朝軍が突破。義仲は近江粟津で討たれ、鎌倉幕府確立への決定的な一歩が刻まれた。
寿永2年閏10月1日(1183年11月17日)
寿永2年(1183年)閏10月、備中国水島で源義仲方の追討軍と平家水軍が激突した海戦。合戦中に金環日食が起こり、暦法を熟知していた平家方が動揺する源氏方を圧倒して大勝した。
寿永2年5月11日(1183年6月2日)
寿永2年(1183年)5月、木曾義仲(源義仲)が越中・加賀の国境に位置する倶利伽羅峠において、平維盛率いる平家大軍を大破した戦い。牛の角に松明を結びつける「火牛の計」の逸話で知られ、義仲の京都入りへの道を開いた源平合戦の転換点。
宝治元年(1247年)6月5日
宝治元年(1247年)6月、北条時頼が三浦泰村一族を鎌倉で滅ぼした幕府内部の権力闘争。武士の集団自刃という名誉死の形式を鮮烈に示し、北条氏の権力独占を決定的に固めた政変。
天武天皇元年6〜7月(672年)
天武天皇元年(672年)6〜7月、大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)が皇位を争った古代日本最大の内乱。大海人皇子が美濃・尾張の豪族を糾合して大友勢を圧倒し、勝利後に天武天皇として即位。律令国家の確立と日本刀の源流となる和刀文化の基盤を形成した。
天正元年8月(1573年8月)
天正元年(1573年)、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(近江国・現滋賀県)を総攻撃した合戦。小谷城は天下に名高い山城の要害であったが、信長の大軍と武将たちの連携攻撃の前に陥落。浅井長政は自刃し、浅井氏は滅亡した。この攻城戦は、信長の天下統一への道を大きく開くとともに、後の明智光秀による本能寺の変への遠因をはらんだ。
天正9年3月22日(1581年4月25日)
天正9年(1581年)3月22日、遠江国高天神城(現・静岡県掛川市)が徳川軍に落城。武田勝頼が籠城軍への救援を送れず、城将・岡部元信らは玉砕。武田の「天下無双の堅城」を守り切れなかった勝頼への武田家臣団の失望は決定的となり、翌年の武田氏滅亡への転機となった悲劇の攻城戦。
天正6年3月〜天正8年1月(1578〜1580年)
天正6〜8年(1578〜1580年)、播磨国三木城(現・兵庫県三木市)において、羽柴秀吉が別所長治の籠もる三木城を2年間にわたって兵糧攻めにした長期攻城戦。秀吉の「干殺し(ほしごろし)」戦術の代名詞となった合戦で、別所長治は城兵を助けるために自刃した。城兵を思う主君の覚悟と、刀による最期が後世に語り継がれる名場面。
天正6年3月〜天正7年3月(1578年〜1579年)
天正6年(1578年)、越後国の覇者・上杉謙信が急死したことを発端に、謙信の養嗣子・景勝(長尾景勝)と景虎(北条三郎)の間で勃発した上杉家の家督相続争い。越後を二分する内乱は約2年間続き、景勝の勝利で幕を閉じた。謙信の霊刀・山鳥毛や景勝が誇った刀剣コレクションが、戦乱の焦点ともなった。
天正6年10月21日(1578年11月)〜天正7年8月(1579年9月)
天正6年(1578年)10月、織田信長の重臣・荒木村重が突如謀反を起こし、摂津国伊丹城(現・兵庫県伊丹市)に籠城した。信長の再三の降伏勧告を拒否し続け、天正7年(1579年)8月に城を脱出して逐電。その後、妻子・家臣ら約600人が処刑された。謀反の真相は今も謎に包まれ、日本史上最も不可解な裏切りの一つとして語り継がれている。
天正5年9月23日(1577年11月3日)
天正5年(1577年)9月、上杉謙信が手取川(現・石川県)で織田信長の大軍を奇襲して壊滅させた伝説の戦い。謙信最晩年の大勝利として知られ、「越後の龍」の武威を天下に示した。しかし翌年の謙信急死により、その勝利は歴史の「if」となった。
天正5年10月(1577年)
天正5年(1577年)10月、大和国信貴山城(現・奈良県平群町)において、松永久秀が織田信長・信忠父子の軍勢に包囲され、天守爆破により自刃した攻城戦。茶釜「平蜘蛛」を城とともに爆破し壮絶な最期を遂げた久秀の姿は、「謀将の矜持」として後世に語り継がれる。
天正5年〜天正6年(1577年〜1578年)
天正5年から6年(1577〜1578年)、尼子氏再興を目指す尼子勝久・山中幸盛(鹿介)らが籠る上月城を毛利氏の大軍が包囲した戦い。織田信長の命で羽柴秀吉が後詰を断念し、尼子勝久は自刃、山中幸盛は護送中に謀殺され、尼子再興の望みは完全に潰えた。
天正4年7月13日(1576年8月)・天正6年11月6日(1578年11月)
天正4年(1576年)と天正6年(1578年)の二度にわたり、摂津国木津川口(現・大阪市)沖で行われた水上合戦。毛利水軍の兵糧輸送を阻止しようとした信長の水軍が、第一次では壊滅的敗北を喫したが、第二次では九鬼嘉隆が建造した鉄甲船により毛利水軍を撃破。世界初の装甲艦による海戦として、日本の戦史に燦然と輝く。
天正4年(1576年)5月7日
天正4年(1576年)5月、石山合戦中に織田信長が大坂・天王寺で本願寺・三好康長の連合軍を迎撃した野戦。信長自身が鉄砲弾を受けて負傷しながら戦況を逆転させた激戦。
天正2年(1574年)冬〜天正3年(1575年)6月
天正2年(1574年)から翌3年にかけて、備中国主・三村元親が毛利氏に反旗を翻し、毛利・宇喜多連合軍に攻められて滅亡した戦い。備中松山城の落城により、備中国は毛利氏の完全な支配下に入った。
天正18年6月23日(1590年7月24日)
天正18年(1590年)、小田原征伐の一環として、上杉景勝・前田利家ら豊臣方別働隊約1万5千が北条氏照の居城・八王子城を攻略した戦い。城主不在の中、城代以下約3千が籠城したが一日で落城した。
天正18年5月〜同年7月(1590年6月〜8月)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、石田三成が武蔵国・忍城(現・埼玉県行田市)を水攻めで攻略しようとした籠城戦。城代・成田泰季、後に総大将・成田長親が率い、正木利英や甲斐姫も支えた約500の守備隊が、三成軍数万の猛攻と石田堤による水攻めに耐えて最後まで落城しなかった。小田原城開城後も孤立して戦い続けた忍城は「浮き城」と呼ばれ、日本三大水攻めの一つとして名高い。
天正17年6月5日(1589年7月17日)
天正17年(1589年)6月、伊達政宗が会津の蘆名氏を摺上原(現・福島県耶麻郡猪苗代町)で撃破し、蘆名氏を滅亡させた合戦。政宗はこの勝利で会津・陸奥の大半を掌握し、「奥州の覇者」として東国一の大大名に上り詰めた。東北における戦国時代の実質的な終焉を告げた合戦。
天正14年〜15年3月〜6月(1586年〜1587年)
天正14年(1586年)から15年(1587年)にかけて、豊臣秀吉が九州全土を平定した大規模軍事行動。島津義久は剃髪して降伏し、秀吉は九州国分によって諸大名の所領を再編。関東・奥州を残すのみとなる天下統一の総仕上げ段階を告げた。
天正13年8月(1585年)、慶長5年9月(1600年)
天正13年(1585年)と慶長5年(1600年)の二度にわたり、真田昌幸・幸村父子が小勢をもって徳川の大軍を上田城に退けた合戦。戦国最高の知将と称される真田昌幸の機略が輝いた守城戦の傑作。
天正12年(1584年)9月9日〜11日
天正12年(1584年)9月、小牧・長久手の戦いに呼応して羽柴方に叛旗を翻した越中の佐々成政が、能登の要衝・末森城を1万5千の大軍で包囲した。城将・奥村永福ら300の兵が落城寸前まで持ちこたえるなか、報せを受けた前田利家は2500の兵を率いて夜を徹して駆けつけ、佐々軍の背後を突いてこれを撃退。前田家の運命を決した「加賀の桶狭間」と称される。