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慶長5年(1600年)8月24日(旧暦。西暦1600年10月1日。小競り合いは8月23日から)
伊勢国・安濃津城(現・三重県津市)
勢力
籠城側(東軍方)
攻め手(西軍)
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慶長5年8月24日(旧暦)、伊勢の安濃津城に籠もった富田信高と、伊勢上野城主の分部光嘉が、毛利秀元・長束正家・安国寺恵瓊らの西軍に攻められた。西暦では1600年10月1日にあたる。結果は西軍の勝利で、木食応其の仲介により和平が成立し、安濃津城は開城した。関ヶ原の戦いに先立つ前哨戦の一つである。
城主は富田信高で、分部光嘉も入城した。籠城側の兵力は約1,700とされる。
攻め手の西軍は、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親、松浦久信らで、総勢約3万とされる。吉川広家の降伏勧告が伝わったともいわれる。
本格的な合戦は慶長5年8月24日とされ、小競り合いは前日の23日から始まっていた。
24日の朝、毛利秀元・長束正家・安国寺恵瓊らは、城の北にある愛宕山などから城を囲んで攻めた。
この戦いのなかで、分部光嘉と西軍の宍戸元次が一騎打ちになり、双方とも重傷を負った。富田信高は危機に陥ったが、若武者に助けられて城に戻ったと伝えられる。この話は『勢陽雑記』などに見える逸話である。
結果は西軍の勝利である。8月25日、木食応其の仲介で和平が成立し、安濃津城は開城した。富田信高と分部光嘉は剃髪し、高野山へ向かった。
富田信高は、関ヶ原の戦いののちに旧領を安堵された。しかし慶長13年(1608年)に伊予宇和島へ移され、その後の津城には藤堂高虎が入った。この転封の事情の説明は資料によって分かれる。
安濃津城の跡は津城跡(お城公園)として残る。昭和33年(1958年)2月に津市指定史跡、平成17年(2005年)3月に三重県指定史跡となった。天守台の石垣が現存している。藤堂高虎による大改修は慶長16年(1611年)とされるが、年次は資料によって差がある。