毛利秀元
Mōri Hidemoto
関ヶ原で「宰相殿の空弁当」の逸話を残した毛利家の重鎮、長府藩初代藩主
解説
毛利秀元(もうり ひでもと、天正7年〈1579年〉-慶安3年〈1650年〉)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。毛利元就の四男・穂井田元清の子で、毛利宗家当主・輝元の養嗣子として育ち、関ヶ原の戦いにまつわる逸話「宰相殿の空弁当」でも知られる。
出自と輝元の養子
秀元は天正7年(1579年)、毛利元就の四男・穂井田元清の子として生まれた。兄の早世により元清の嫡男となり、天正13年(1585年)、宗家当主・毛利輝元に実子がなかったことから輝元の養嗣子に迎えられたとされる(ただし同時代史料での裏付けは限定的で、後世編纂の『毛利秀元記』に依拠する部分が大きい)。天正20年(1592年)、広島に滞在中の豊臣秀吉と対面した秀元は「秀」の偏諱を与えられた。
朝鮮出兵での武功
文禄の役では文禄2年(1593年)に朝鮮へ渡海し、晋州城攻略戦で主将格として戦功を挙げ、秀吉のもとへ多数の首級を報告したほか、釜山城の築城にも従事した。慶長の役では毛利軍3万の総大将として再度渡海し、黄石山城の攻略、稷山での明軍撃退、蔚山城救援などの主要な戦闘に参陣している。
関ヶ原の戦いと「宰相殿の空弁当」
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀元は南宮山に布陣し西軍主力の一翼として戦う構えを見せた。しかし従兄弟にあたる吉川広家が東軍・徳川家康と内通しており、広家が自陣を盾のように配置して秀元隊の進撃路を塞いだため、秀元は開戦を知りながら一戦も交えることができなかった。使者の督促に対し秀元が「今、兵に弁当を食べさせている最中で」と応じたと伝わるこの逸話は、後世「宰相殿の空弁当」と呼ばれるようになった。
長府藩初代藩主としての治世
関ヶ原後、毛利本家は防長2ヶ国に大減封されたが、秀元はその中から長門国長府に6万石を分知され、長府藩の初代藩主となった。寛永年間には検地を実施して石高を実質的に増加させ、紙の専売制(請紙制)の導入や新田開発、藩財政の借財完済などを進め、長府藩の基盤を固めた。一方で本家当主・毛利秀就との間には後見役を巡る確執が生じ、寛永7年(1630年)頃から軋轢が深まって独立を画策する動きも見せたが実現せず、寛永13年(1636年)に幕府の仲裁で和解した。関ヶ原での広家の内通を知った後は、長府毛利家と岩国吉川家の間に長く確執が残ったと伝わる。
刀剣との関わり
秀元は文禄2年(1592年)の秀吉との対面の際、脇差「鷲の巣行光」(三好長逸の指料であったとされる行光作)と太刀「厚藤四郎」を拝領したと伝わる。また秀吉が愛用した「光忠」の刀も秀元に譲られたとされ、これらは毛利家の重宝として伝来した。備前三郎国宗の太刀は寛永17年(1640年)、秀元から将軍・徳川家光に献上されている。
後世の評価
秀元は古田織部に茶の湯を学んだ文化人でもあり、晩年は将軍・徳川家光の御伽衆として江戸で過ごした。武功・治世・文化の各面で毛利一門の重鎮として活躍した一方、「空弁当」の逸話は関ヶ原における毛利家の不作為を象徴する挿話として、今日でも広く語り継がれている。
所持した刀剣
- 厚藤四郎(豊臣秀吉から拝領した太刀、藤四郎作)
- 鷲の巣行光(三好長逸の指料と伝わる脇差、行光作、秀吉から拝領)
- 光忠(秀吉が愛用した刀、光忠作、秀吉から譲られたと伝わる)
- 備前三郎国宗(太刀、寛永17年〈1640年〉に将軍・徳川家光へ献上)