戦国時代-江戸時代初期1537年(または1539年)-1600年
安国寺恵瓊
Ankokuji Ekei
信長の没落と秀吉の躍進を予見した毛利家の外交僧——関ヶ原で散った策謀の僧
解説
生涯
安国寺恵瓊は天文六年(一五三七年)または天文八年(一五三九年)頃、安芸国の武田氏の一族に生まれたと伝わる。主家である安芸武田氏の佐東銀山城が毛利元就に攻め落とされた際に一族が滅び、恵瓊は出家して京都・東福寺で修行したとされる。
外交僧としての活動
その後、毛利氏の外交僧として活動し、織田信長や豊臣秀吉との交渉窓口を務めた。特に本能寺の変直後、備中高松城を攻囲していた秀吉との講和交渉をまとめ、毛利氏の存続に大きく貢献したとされる。豊臣政権下では独自に知行を与えられ、四国征伐や朝鮮出兵にも従軍した。
信長・秀吉に関する予言
天正元年(一五七三年)、恵瓊が毛利家臣に宛てた書状には「信長の代は五年、三年は持たるべく候。その後、高転びに転ぶと見え申し候。藤吉郎(秀吉)はさりとてはの者にて候」との一節があり、信長政権の崩壊と秀吉の台頭を的中させた予言として知られる。
関ヶ原の戦いと最期
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元を西軍総大将に擁立する中心人物となった。しかし本戦前夜に輝元方が家康方と内応したため毛利勢は戦闘に加わらず、西軍は敗北した。戦後、恵瓊は西軍首謀者の一人として捕縛され、同年十月一日、石田三成・小西行長とともに京都・六条河原で斬首された。
後世評価
安国寺恵瓊は、武力によらず外交と情報によって毛利家を支えた稀有な政僧として評価される一方、関ヶ原での毛利氏の去就をめぐる判断の当事者として、その責任を問う見方も根強く、戦国末期を象徴する謎多き人物として今日も注目されている。