※画像はイメージです。藤堂高虎
Tōdō Takatora
築城の名手・伊予今治藩初代藩主
解説
藤堂高虎(1556-1630)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、日本史上屈指の築城家として知られる人物である。近江国(現在の滋賀県)の土豪・藤堂虎高の子として生まれ、若年から数多くの主君を渡り歩いた波乱の生涯を送った。
高虎は生涯に七度主君を変えたとされ、「主君を何度も変えるは武士の恥」という当時の道義に反する行動を取りながらも、それぞれの主君に誠実に仕えその能力を遺憾なく発揮した。浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄・羽柴秀長・豊臣秀吉・徳川家康と渡り歩き、最終的に関ヶ原の戦い(1600年)では東軍(徳川方)に属して武功を立て、伊予今治10万石の大名となった。
高虎の名を歴史に刻むのは、何よりその卓越した築城技術である。今治城・津城・宇和島城・篠山城・江戸城(一部)・丹波亀山城・伊賀上野城・膳所城・大坂城(修築)など、全国20か所以上の城の縄張りや普請に関わったと言われる。高虎の城の特徴は、高石垣・広い堀・登り石垣などの革新的な技術を取り入れた実戦的な築城スタイルにある。特に今治城の三重堀や石垣の技術は当時の最先端であり、後世の城郭建築に多大な影響を与えた。
日本刀との関わりにおいては、高虎は戦場での実戦経験豊富な武将として鋭利な刀剣を重視した。身長が六尺二寸(約188センチ)と伝えられる大柄な体格の持ち主であり、そのため大ぶりの刀を好んだと伝えられる。また主君・豊臣秀長から拝領した刀は高虎の家宝として藤堂家に伝来し、藤堂家の武家文化における刀剣への敬意を象徴するものとなった。
関ヶ原以降、高虎は徳川家康・秀忠・家光の三代にわたって仕え、幕府の重要な役職を歴任した。外様大名でありながら譜代大名に準じる厚遇を受け、「外様に非ず、譜代に非ず」と評されるほど家康に信頼されたという。その合理的な思考と実行力、そして時代を読む卓越した洞察力が、乱世を生き延びて江戸の泰平の世を迎えることを可能にした稀有な武将であった。
所持した刀剣
- 豊臣秀長拝領の刀(藤堂家伝来)
- 実戦型の大刀・打刀