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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
69件のイベント
天正13年8月(1585年)、慶長5年9月(1600年)
天正13年(1585年)と慶長5年(1600年)の二度にわたり、真田昌幸・幸村父子が小勢をもって徳川の大軍を上田城に退けた合戦。戦国最高の知将と称される真田昌幸の機略が輝いた守城戦の傑作。
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天正12年(1584年)9月9日〜11日
天正12年(1584年)9月、小牧・長久手の戦いに呼応して羽柴方に叛旗を翻した越中の佐々成政が、能登の要衝・末森城を1万5千の大軍で包囲した。城将・奥村永福ら300の兵が落城寸前まで持ちこたえるなか、報せを受けた前田利家は2500の兵を率いて夜を徹して駆けつけ、佐々軍の背後を突いてこれを撃退。前田家の運命を決した「加賀の桶狭間」と称される。
天正10年6月13日(1582年7月2日)
天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変からわずか11日後に起きた「中国大返し」の到達点。羽柴秀吉が明智光秀を山城国山崎(現・大阪府三島郡)で撃破し、信長亡き後の覇権を手中にした。天王山をめぐる攻防から「天下分け目の戦い」という言葉が生まれた合戦。
天正10年4月〜6月2日(1582年5月〜6月21日)
天正10年(1582年)4月〜6月、備中国高松城(現・岡山市北区高松)において、羽柴秀吉が清水宗治の籠もる高松城を水攻めにした攻城戦。秀吉が足守川を堰き止めて高松城を水没させた「水攻め」は日本史上最大規模の工事とも言われる。本能寺の変の報を受けた秀吉が「中国大返し」で京都に引き返すきっかけとなった歴史的合戦。
天正10年3月2日(1582年3月2日)
天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐の中で、織田信忠率いる大軍が信濃・高遠城を包囲。城主・仁科盛信はわずか3000未満の兵で抗戦するも一日で落城し、自刃して果てた。武田家滅亡を決定づけた最後の激戦として知られる。
天正10年3月11日(1582年4月3日)
天正10年(1582年)3月、武田勝頼が甲斐国天目山(田野)で織田・徳川連合軍に追い詰められ自刃した合戦。信玄亡きあとわずか10年で滅亡した武田家の最期を告げる悲壮な戦いであり、戦国最強と謳われた武田軍団の終焉を象徴する。
天正10年(1582年)8月
天正10年(1582年)8月、長宗我部元親が阿波の三好・十河連合軍を中富川で大破した合戦。本能寺の変直後の混乱を突いた元親の決断と、一領具足の強兵による電撃作戦が四国統一の決定的な一手となった。
天正10年(1582年)6月16日〜19日
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死した直後、上野を治めていた織田家の重臣・滝川一益と、関東の雄・北条氏直の軍勢が武蔵・上野国境の神流川で激突した。戦国期の関東地方で最大規模の野戦とされ、約1万8千の滝川勢は約5万6千の北条勢に大敗、一益は本拠の伊勢長島まで敗走した。信長死後の権力の空白が関東に生んだ大合戦である。
天文元年(1532年)8月
天文元年(1532年)8月、細川晴元・六角定頼・法華一揆の連合軍が一向一揆の本拠・山科本願寺を焼き払い壊滅させた享禄・天文の乱の決定的事件。本願寺本拠の大坂移転と石山合戦への布石となった。
天文9年(1540年)秋
天文9年(1540年)秋、安芸国郡山城(現・広島県安芸高田市)において、毛利元就が尼子晴久率いる出雲の大軍の攻撃を撃退した合戦。兵力で圧倒的に劣る毛利軍が、元就の巧みな守城戦と反撃により尼子の侵攻を退け、毛利氏が中国地方の覇者へと成長する転換点となった歴史的勝利。
天文7年10月7日(1538年10月23日)
天文7年(1538年)、下総国国府台で小弓公方足利義明・里見義堯らの連合軍と後北条氏の北条氏綱・氏康父子が激突した戦い。義明の戦死により小弓公方は滅亡し、北条氏が下総方面へ勢力を拡大する契機となった。
天文5年7月(1536年)
天文5年(1536年)7月、比叡山延暦寺の僧兵が六角定頼の軍事支援を受けて京都の日蓮宗21本山をすべて焼き討ちにした宗教戦争。応仁の乱を上回るともいわれる大規模な焦土をもたらし、法華宗信徒は6年間京都から追放された。戦国時代における宗教・武力・大名権力の交錯を示す事件。
天文17年3月19日(1548年)
天文17年(1548年)3月19日、三河国額田郡小豆坂(現・愛知県岡崎市)において、尾張の織田信秀と、駿河・遠江・三河を治める今川義元(軍を率いたのは太原雪斎)が激突した合戦。岡崎城主・松平広忠の後見をめぐって尾張・織田氏と駿河・今川氏が三河の帰属を争う中で発生し、今川方の勝利により今川氏の三河支配が確定した。二度にわたり同地で戦われたとされ、1548年の戦いは「第二次小豆坂の戦い」とも呼ばれる。
天文17年2月(1548年)
天文17年(1548年)2月、信濃国小県郡上田原(現・長野県上田市)において、武田信玄と村上義清が激突した合戦。武田軍が大敗し、信玄は右太腿に矢傷を負って本陣に退くという稀有な苦戦を喫した。軍師・板垣信方と甘利虎泰という二将を失った武田軍にとって、戦国史上屈指の屈辱的敗北として記憶される。
天文15年4月20日(1546年5月19日)
天文15年(1546年)、北条氏康が80,000の包囲軍に対してわずか8,000の兵で夜間奇襲を敢行した関東最大の奇襲戦。北条・上杉・足利が三つ巴で争う中、氏康の大胆な戦略が上杉朝定・足利晴氏連合軍を壊滅させ、北条氏の関東覇権を確立した。
天文11年(1542年)6月〜天文17年(1548年)9月
天文11年(1542年)から17年(1548年)にかけ、伊達家当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗が家督と外交路線を巡って対立し、南奥羽の諸大名を二分する6年におよぶ大乱に発展した。将軍・足利義輝の仲裁で和睦し、晴宗は本拠を米沢城へ移して体制を再編、後の伊達政宗による奥州制覇の前史となった。
元亀元年6月28日(1570年7月30日)
元亀元年(1570年)6月、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江国姉川河畔で激突した野戦。家康の家臣・榊原康政らの奮戦で戦局を転じ、織田・徳川軍が勝利。浅井・朝倉同盟の瓦解を加速させた合戦。
元亀元年4月(1570年)
元亀元年(1570年)4月、越前国敦賀の金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)において、織田信長が朝倉義景討伐のために越前に侵攻中、同盟者・浅井長政の突然の裏切りによって挟撃の危機に陥り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)を殿軍に残して強行突破した撤退戦。秀吉が「天下人への足がかり」を掴んだとも言われる「金ヶ崎の退き口」は戦国屈指の名撤退として語り継がれる。
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)
元亀元年〜天正8年(1570〜1580年)、織田信長と石山本願寺(浄土真宗の総本山)との間で行われた約10年間にわたる攻防戦。一向宗の武装門徒(一向一揆)が石山(現・大阪城付近)に拠って信長軍と戦い続け、最終的には天皇の勅命による和議で終結した。日本刀と信仰が交差した戦国最長の籠城戦。
元亀3年5月4日(1572年6月5日)
元亀3年(1572年)、日向国(現・宮崎県)において、島津義弘率いる島津軍が伊東義祐率いる伊東軍を奇策で撃破した合戦。寡兵の島津義弘が「釣り野伏せ」の戦術で3倍以上の伊東軍を殲滅し、薩摩・日向の覇権をめぐる抗争で決定的な勝利を収めた。この戦いで義弘の武名は轟き、島津家の日向支配が確立された。「日向の桶狭間」とも呼ばれる薩隅日の合戦史上最重要の戦い。
元亀3年〜天正3年(1572年〜1575年)
元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)にかけて、美濃・岩村城をめぐり武田と織田が争った。女城主おつやの方は武田の智将・秋山虎繁との婚姻によって城を守ろうとしたが、長篠合戦後に信長方が城を奪還し、虎繁とおつやの方は処刑された。
1615年5月(慶長20年4月〜5月)
慶長20年(1615年)5月、徳川家康が豊臣家を滅ぼした最後の決戦。真田幸村が家康本陣へ決死の突撃を敢行し、その壮絶な最期は「日本一の兵(つわもの)」と称えられた。
1614年10月〜12月(慶長19年9月〜12月)
慶長19年(1614年)10月〜12月、徳川家康が豊臣秀頼の居城・大坂城を攻囲した合戦。真田幸村が「真田丸」を築いて徳川軍を撃退し、砲撃戦・和議交渉が絡み合う複雑な攻防戦となった。翌年の夏の陣への直接の前哨戦。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の決戦が美濃国関ヶ原で行われた。東軍・徳川家康と西軍・石田三成が激突し、わずか一日で日本の覇権が決した歴史的大合戦。