向羽黒山城
Mukaihaguroyama Castle
向羽黒山城は戦国時代〜安土桃山時代(永禄4年〈1561年〉築城開始・永禄11年〈1568年〉完成、慶長6年〈1601年〉廃城)に築かれた東北の名城。城主は蘆名盛氏(築城)、蘆名盛興・盛隆・義広、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝(Ashina Moriuji (builder), Ashina Moriaki, Moritaka and Yoshihiro, Date Masamune, Gamō Ujisato, and Uesugi Kagekatsu)。
概要
概要
向羽黒山城は、福島県会津美里町の白鳳山に築かれた巨大な山城。観音山・羽黒山・岩崎山の三山にまたがり、規模は東西約1.4キロメートル、南北約1.5キロメートル、面積およそ50ヘクタールに及ぶ。東北で最大級、日本国内でも屈指の規模を誇る戦国期の山城である。
築城と蘆名盛氏
永禄4年(1561年)、戦国期の会津を支配した蘆名氏16代・蘆名盛氏が築城を開始し、8年の歳月をかけて永禄11年(1568年)に完成させた。盛氏は家督を子の盛興に譲ったのちも実権を握り、この城を隠居城として会津の政務を執った。眼下に阿賀川と会津盆地を望み、南方の街道を扼するこの山は、越後の上杉氏や南奥の諸勢力に備える戦略拠点でもあった。
蘆名氏滅亡と歴代の改修
天正17年(1589年)、蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に敗れて蘆名氏は滅び、会津は政宗の手に落ちる。以後、豊臣秀吉の奥州仕置で入部した蒲生氏郷、続いて慶長3年(1598年)に会津へ移封された上杉景勝が、いずれもこの城に手を加えた。とくに上杉氏は慶長3年から翌年にかけ、朝鮮半島の熊川倭城を参考に籠城戦を想定した大規模な改修を施したと伝わる。慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦い後の上杉氏の米沢転封にともない廃城となった。
構造・遺構
山頂の一曲輪を中心に、二曲輪・三曲輪・御茶屋場曲輪などが尾根と谷を利用して広大に展開する。曲輪・土塁・堀切・竪堀・石垣が良好に残り、とくに巨大な堀切と幾重にも刻まれた竪堀群は、戦国末期の築城技術の到達点を示す。天守を持つ近世城郭ではなく、地形そのものを城とした山城の完成形といえる。
刀剣とのかかわり
最後の改修者である上杉景勝は、上杉謙信以来の名刀を受け継ぎ、みずから多くの名物を蒐集した大名として知られる。景勝が記した「上杉景勝腰物目録」は、のちに「上杉家御手選三十五腰」と呼ばれる名刀群の基礎となった。三十五腰には国宝2口、重要文化財10口、重要美術品10口が含まれ、その多くが現在も米沢に伝わる。会津時代の景勝が最前線の要害として整えたのが、この向羽黒山城であった。
現状・アクセス
城跡は白鳳山公園として整備され、遊歩道が巡り、地元のガイドによる案内も受けられる。向羽黒山城跡整備資料室(向羽黒ギャラリー)では発掘調査の成果を展示している。2001年に国の史跡に指定され、2017年には続日本100名城(111番)に選定された。
刀剣との関わり
慶長3年(1598年)に会津へ移封され当城を改修した上杉景勝は、上杉謙信以来の名刀を受け継ぎ多くの名物を蒐集した大名として知られる。景勝が記した「上杉景勝腰物目録」は、のちに「上杉家御手選三十五腰」と呼ばれる名刀群の基礎となった。三十五腰には国宝2口・重要文化財10口・重要美術品10口が含まれ、その多くが米沢に伝わる。
見どころ
- 東西1.4キロ・南北1.5キロ、面積約50ヘクタールに及ぶ東北最大級の戦国山城
- 蘆名盛氏が8年をかけて築いた隠居城(永禄4年着工・永禄11年完成)
- 伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝が相次いで改修し、上杉氏は熊川倭城を参考に籠城戦仕様へ
- 名刀「上杉家御手選三十五腰」を撰んだ上杉景勝が最前線の要害として整えた城
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。