※画像はイメージです。七戸城(柏葉城)
Shichiknohe Castle (Kashiwaba Castle)
七戸城(柏葉城)は南北朝時代〜明治(14世紀後半〜1873年廃城)に築かれた東北の名城。城主は七戸氏(南部氏支流)→南部氏→七戸藩(南部氏支藩)(Shichiknohe Clan (Nanbu Clan branch) → Nanbu Clan → Shichiknohe Domain (Nanbu Clan sub-domain))。
概要
築城と七戸氏の起源
七戸城は陸奥国北郡(現青森県上北郡七戸町)の作田川と和田川の合流点付近の台地(比高約40メートル)に築かれた平山城である。別名・柏葉城とも呼ばれる。築城の時期・築城者については諸説あり、南部政長による築城伝承が古くから伝わるが、近年の考古学的調査の結果、南部政光が14世紀後半に築城したとする説が有力となっている。城主・七戸氏は鎌倉時代から陸奥に所領をもつ南部氏の支流で、甲斐国南部荘を起源とする一族が下向して七戸の地を支配したとされる。
南北朝期の活動
南北朝時代には、七戸城は八戸根城とともに南朝方の一大拠点として東北北部における政治・軍事的重要性を発揮した。この時代、北奥羽では南部氏の諸支流が各地に拠点を構え、それぞれが独自の勢力圏を維持していた。七戸氏は南部惣領家とは一定の距離を保ちながら、地域の有力豪族として存続した。
九戸政実の乱と七戸家国
七戸城の歴史上の重要事件として特筆されるのが天正19年(1591年)の九戸政実の乱である。九戸政実は南部惣領家の権威に挑戦して挙兵し、七戸家国は政実方に加担した。同乱は豊臣秀吉の命を受けた奥州仕置の大軍によって鎮圧され、政実は降伏後に処刑された。七戸家国もこの乱への加担を咎められ改易・滅亡し、七戸城は南部惣領家の直轄管理下に移った。
江戸期から廃城・復元まで
江戸時代に入ると一国一城令(元和元年・1615年)の適用を受けて七戸城は廃城となったが、城内には代官所が置かれ行政機能は継続した。寛文4年(1664年)以降、七戸は南部盛岡藩の管轄下で代官所が設置された。明治2年(1869年)の版籍奉還にともない七戸藩が創設され、城跡に藩庁が置かれたが、明治4年(1871年)の廃藩置県で廃止、1873年に廃城となった。城の遺構は土塁・堀・郭の形態を留め、昭和16年(1941年)に国史跡に指定された。現在は「柏葉公園」として整備・一般公開されており、復元された武家屋敷や城跡の土塁を見学できる。
現在
七戸町教育委員会による継続的な発掘調査が行われており、中世の掘立柱建物跡や陶磁器・鉄製品が出土している。城址公園内には七戸城跡の説明板が整備され、南北朝〜戦国期の北奥羽における政治史を学ぶ場として活用されている。
刀剣との関わり
南部氏は陸奥国における刀剣文化の重要な担い手であり、七戸城を本拠とした七戸氏もその傘下で刀剣の収集・保有に積極的だった。七戸周辺では砂鉄を含む地盤が広がり、東北の鍛冶師への原料供給を支えた。南北朝期には、七戸城を拠点とした武士団が実戦用の打刀・薙刀を装備し、城内での武具製作・修繕も行われたと考えられている。
見どころ
- 国指定史跡・柏葉城の別名で知られる中世平山城
- 南北朝時代の南朝方拠点
- 九戸政実の乱で七戸家国が加担した歴史的事件
- 南部氏支流・七戸氏の本拠地
- 柏葉公園として整備・一般公開
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。