※画像はイメージです。九戸城(福岡城)
Kunohe Castle (Fukuoka Castle, Iwate)
九戸城(福岡城)は南北朝期以来の九戸氏居城。天正19年(1591年)「九戸政実の乱」で豊臣秀吉の奥州仕置軍に敗北し終幕に築かれた東北の名城。城主は九戸政実(くのへまさざね) → 蒲生氏郷(攻城総大将)→ 南部氏(Kunohe Masazane (defender) → Gamō Ujisato (besieging commander) → Nanbu clan)。
概要
九戸城(くのへじょう)は岩手県二戸市に位置する中世城郭で、陸奥国北部(現・岩手県北部)を支配した九戸氏の本拠である。「九戸政実の乱(天正19年・1591年)」——豊臣秀吉の奥州仕置(平定)に対する最後の武装抵抗——の舞台として、日本の戦国統一史の幕を閉じた城跡として歴史的に重要な位置を占める。
九戸政実(くのへまさざね)は陸奥国九戸郡を支配する国人領主で、南部氏(三戸南部氏)の家臣でありながら事実上の独立的地位を保っていた。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による「奥州仕置」において南部氏が豊臣政権の支配下に組み込まれると、九戸氏はその処遇に不満を持ち天正19年(1591年)に反乱を起こした。
豊臣政権は蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将とし、浅野長政・石田三成らを伴う6万〜10万規模の大軍を奥州に派遣した。九戸城は天然の断崖と丁寧に構築された石垣・土塁によって守られた堅城であり、政実は3千ほどの兵力で大軍の攻撃を約1ヶ月にわたって凌いだ。最終的には蒲生氏郷の和睦交渉(偽の安全保障)によって開城したが、政実は捕縛・処刑されて九戸氏は滅亡した。この九戸一揆の鎮圧をもって、豊臣秀吉の全国統一は完成した。
現在の九戸城跡は国の史跡として整備されており、東北地方最大規模の石垣遺構が良好な保存状態で残る。野面積み(のずらつみ)と打込み接ぎ(うちこみはぎ)を組み合わせた石垣技術は戦国末期の建築技術の水準を示す貴重な遺構である。城跡は「御所野縄文遺跡(世界遺産・北海道・北東北の縄文遺跡群)」の近隣に位置し、歴史観光の拠点として整備が進んでいる。
刀剣との関わり
九戸城と日本刀の関係は、東北(陸奥)という辺境の地域における刀剣文化と、攻城軍を率いた蒲生氏郷という稀有な文化人武将の刀剣愛好の双方から語ることができる。 九戸一揆を鎮圧した攻城総大将・蒲生氏郷(がもううじさと)は、茶の湯・文芸・武術に長けた戦国末期の代表的文化人武将であり、キリシタン大名(洗礼名レオン)としても知られる。氏郷は鶴ヶ城(若松城)の初代藩主として会津を治め、南蛮文化と日本の武家文化を融合させた独自の文化圏を形成した。氏郷ゆかりの刀剣については「蒲生氏郷所用」の伝承を持つ刀剣が複数の機関に所蔵されており、特に彼が信仰したキリスト教の十字架をあしらった刀装具(こしらえ)の記録は、戦国末期の国際的文化交流を刀剣の側面から示す希少な事例である。 東北の武士たちが使用した刀剣については、「奥州鍛冶(おうしゅうかじ)」として知られる地域の刀工集団が存在した。特に陸奥国では「舞草(もくさ)」「宝寿(ほうじゅ)」系の刀工が古代から中世にかけて活動しており、奥州で製造された刀剣は畿内でも流通した。九戸氏が支配した岩手北部は、奥州の刀剣文化圏の最北端に位置し、地域の鍛冶師が武器供給を担っていた。 九戸城の開城後、豊臣政権による奥州平定が完成したことで、東北の刀工たちも豊臣の刀狩り(刀剣没収令)の対象となり、農民・在地勢力からの刀剣回収が進んだ。九戸城は東北刀剣文化の「戦国の終焉」を象徴する場所として位置づけられる。
見どころ
- 九戸城石垣(国史跡) — 東北最大規模の戦国期石垣遺構、野面積み・打込み接ぎの技法
- 本丸跡・二の丸跡 — 天然断崖と人工土塁・石垣による要害構造を体感
- 九戸政実に関する展示(二戸市シビックセンター) — 九戸一揆と戦国東北の史料
- 蒲生氏郷ゆかりの会津若松城 — 攻城総大将・氏郷が後に築いた名城(車で南方約3時間)
- 御所野縄文遺跡(世界遺産) — 城跡近隣の縄文時代世界遺産、歴史の重層性
- 馬淵川・安比川の渓谷 — 九戸城の天然の防衛地形、岩手北部の山岳景観
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。