※画像はイメージです。多賀城
Tagajō
多賀城は神亀元年(724年)大野東人が創建、平安末期まで陸奥国府として機能に築かれた東北の名城。城主は大野東人(創建)/ 歴代陸奥国司・鎮守府将軍(Ōno Azumabito (founder) / successive Mutsu Governors and Chinjufu Commanders)。
概要
多賀城(たがじょう)は宮城県多賀城市に位置する古代の城柵(じょうさく)であり、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国(現・東北地方)の国府(地方行政の中心)および鎮守府(軍事拠点)として機能した国家的施設である。「城」とはいっても中世・近世の城郭とは異なり、大型の掘立柱建物と築地塀(ついじべい)からなる官衙(かんが)建築群であった。
神亀元年(724年)、陸奥按察使・大野東人によって創建された多賀城は、朝廷が蝦夷(えみし)との戦いを進める中で東北経営の最前線拠点として機能した。坂上田村麻呂(758〜811年)も鎮守府将軍として活躍した地であり、蝦夷征討(東北への朝廷支配拡大)の歴史と不可分に結びついている。
城内には政庁(長官の執務棟)・倉庫・兵舎などが整備され、奈良の平城京と同様の格式ある建築が並んでいた。最大の見どころは「多賀城碑」(別名:壺碑・つぼのいしぶみ)で、天平宝字6年(762年)に建立されたとされ、「日本三古碑」の一つに数えられる国宝級の石碑である。この碑には多賀城と各地点の距離が刻まれており、当時の地理認識と道路網を知る貴重な資料となっている。
宝亀11年(780年)の伊治呰麻呂の乱では多賀城の政庁などが焼亡するなど蝦夷の反乱によって被害を受け、平安時代後期には奥州藤原氏の台頭によって国府としての機能を失ったとされる。現在は特別史跡として整備されており、政庁跡・外郭南門跡などの復元建築が往時の姿を伝えている。東日本大震災(2011年)でも地域は被災したが、多賀城跡の遺構は概ね保全された。
刀剣との関わり
多賀城と刀剣の関係は、坂上田村麻呂の蝦夷征討という日本史上最初期の大規模軍事行動に始まる。田村麻呂は征夷大将軍として東北各地に遠征し、多賀城を前線基地として蝦夷との戦いを繰り広げた。この時代の刀剣は「直刀(ちょくとう)」と呼ばれる中国大陸・朝鮮半島の影響を受けた両刃または片刃の直剣が主流であり、後世の「反り」を持つ日本刀(湾刀)が完成する以前の武装形態を示している。 奈良時代から平安初期にかけての蝦夷征討において、朝廷は大量の武器・甲冑を東北に送り込んだ。多賀城は兵器の集積・管理・配給の拠点でもあり、当時の刀剣(直刀)や矢・弓・甲冑が大量に保管・使用された場所である。 平安時代中期に湾刀(反りのある日本刀)が完成すると、蝦夷との戦いの経験を通じて発展した騎馬戦術との相互影響が指摘される。東北の武士(後の奥州藤原氏に続く武士団)が磨いた馬上での刀剣術は、日本刀の形状進化にも影響を与えたとも言われる。多賀城はこうした日本刀誕生の歴史的背景を語る上で欠かせない場所である。
見どころ
- 多賀城碑(壺碑) — 天平宝字6年(762年)建立、日本三古碑のひとつ(国宝級)
- 政庁跡 — 陸奥国の最高行政機関の跡地、復元建築で往時の威容を体感
- 外郭南門跡 — 復元整備された城の正門、古代官衙の格式を今に伝える
- 坂上田村麻呂ゆかりの地 — 征夷大将軍が蝦夷征討を指揮した歴史的拠点
- 多賀城市埋蔵文化財調査センター — 発掘出土品の展示・研究施設
- 特別史跡の広大な敷地 — 日本最大規模の古代城柵跡のひとつ
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。