※画像はイメージです。柴田勝家
Shibata Katsuie
織田四天王・北ノ庄城主
解説
生涯と出自
柴田勝家(しばた かついえ、生年は大永2年〈1522年〉説など諸説あり〜1583年)は、尾張国に生まれた織田家の宿老である。はじめ信長の弟・織田信勝(信行)に仕え、信長と対立した稲生の戦いでは信勝方として戦ったが、のちに信長に帰参し、以後は筆頭家老格として重きをなした。剛勇をもって知られ、「鬼柴田」「掛かれ柴田」の異名で恐れられた武将である。
北陸方面軍の司令官
勝家は織田家の北陸方面軍を統括する司令官として、越前・加賀方面の一向一揆平定や上杉氏との対戦を担った。天正3年(1575年)頃に越前を与えられ、北ノ庄城(現在の福井市)を築いて本拠とした。城下の整備や領国経営にも手腕を示し、北陸支配の要としての役割を果たした。
勝家には「甕割柴田(かめわりしばた)」の異名も伝わる。元亀元年(1570年)、近江の長光寺城で六角義賢の軍に包囲され水の手を断たれた際、勝家は最後に残った水を将兵に振る舞ったうえで水甕を叩き割り、退路を断って決死の覚悟を固めさせ、城から打って出て活路を開いたという逸話に由来する(刀による武功譚ではなく、水甕を割った故事である)。
賤ヶ岳の戦いと最期
天正10年(1582年)の本能寺の変の後、清洲会議で勝家は羽柴秀吉と織田家の主導権を争った。信長の妹・お市の方を正室に迎えて結束を固めたが、両者の対立は避けられず、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた。北ノ庄城に退いた勝家は、同年4月24日、お市の方とともに自害して果てた。お市は三人の娘(茶々・初・江)を城から落ち延びさせ、自らは勝家と運命を共にしたと伝わる。この最期は、戦国武将の潔さを象徴する場面として広く知られる。
刀剣と武具
勝家ゆかりの名刀として「にっかり青江」が伝わる。南北朝時代の備中青江派・青江貞次による大脇差(重要美術品)で、夜道でにっかりと笑う女の幽霊を斬ったところ、翌朝には石塔が真っ二つになっていたという伝説が号の由来とされる。勝家が所持したのち、子・勝敏を経て丹羽長秀の手に渡り、豊臣秀吉へと献上されて、最終的に讃岐丸亀の京極家に伝来した。剛勇の将である勝家にふさわしい、逸話に彩られた一振りである。越前を領した勝家の膝下でも刀鍛冶の活動が続いており、武辺の将として実戦に堪える刀を重んじた勝家の気風がしのばれる。
後世の評価
勝家は、忠勇無比の古参家臣として、また信長亡き後の織田家中を秀吉と二分した実力者として歴史に名を刻む。お市の方との悲劇的な最期は、後世の物語や芸能に繰り返し取り上げられ、剛毅にして情に篤い武将像を今に伝えている。北ノ庄城址に建つ柴田神社は、今も勝家夫妻を祀り、福井の人々に敬われている。
所持した刀剣
- 柴田切れ(村正)
- 北ノ庄伝来の名刀