※画像はイメージです。中沢琴
Nakazawa Koto
法神流を修めた男装の女剣士——新徴組唯一の女性隊士と伝わる幕末の武人
解説
中沢琴(なかざわ こと、天保10年〈1839年〉頃-昭和2年〈1927年〉)は、上野国利根郡穴原村(現・群馬県沼田市利根町穴原)の出身で、剣術流派・法神流を修めた女剣士である。生年については確実な史料が乏しく、天保10年頃という説が広く知られるが異説もある。身長は約170センチと、当時の女性としては際立って長身であったと伝わる。
兄・中沢貞祗も法神流の遣い手であった。文久3年(1863年)、将軍警護のため江戸で募られた浪士組に貞祗が参加することになると、琴は男装してこれに同行し上洛した。浪士組はのちに分裂し、江戸に戻った一派が新徴組(庄内藩お預かりの治安維持組織)となるが、琴は貞祗とともにこの新徴組に加わり、各地を転戦したと伝わる。新徴組は江戸市中の警邏を主な任務とし、後に戊辰戦争では庄内藩とともに新政府軍と戦うことになる。ただし、浪士組・新徴組の名簿に琴の名は記されていない。
ただし、琴が実際にどの戦闘にどのような形で参加したかを具体的に裏付ける一次史料は乏しく、戊辰戦争期の庄内での戦いに従軍したとする後世の伝承がある一方、詳細な戦闘記録として確認できる部分は限定的である。生涯独身を貫き、「自分より強い男でなければ嫁がない」と語っていたという逸話も伝わるが、これも後年の伝聞に依拠する部分が大きく、史実と後世の脚色を慎重に区別して扱う必要がある。男装していたにもかかわらず容姿が優れていたため、正体を知らない女性から想いを寄せられて困惑したという逸話も残るが、これも同様に伝聞の域を出ない。維新後は郷里の上州に戻って生涯を終えたとされ、昭和2年(1927年)10月、88歳前後で没した。男装して剣を取り新徴組の一員として戦場に立ったとされる姿は、同時代を生きた会津の中野竹子らとともに、幕末という時代の武家社会における武芸の裾野の広さを物語る事例として、今日まで語り継がれている。
所持した刀剣
- 法神流剣術(新徴組隊士として実戦で用いたと伝わるが、具体的な佩刀・得物の記録は確認されない)