清河八郎
Kiyokawa Hachirō
北辰一刀流の剣客にして新選組誕生の引き金を引いた志士
解説
生涯
文政十三年(一八三〇年)に出羽国庄内の清川村(現・山形県庄内町)に生まれた清河八郎は、十八歳で江戸に上り、当代随一の学問所に学んだ。学問と剣術の両道に秀で、二十五歳にして文武を教える清河塾を開いた、幕末きっての志士である。
北辰一刀流の剣客としての顔
江戸に出た八郎は千葉周作の玄武館に入門し、北辰一刀流剣術を修めて免許皆伝を得た。当時、学問と剣術の両方を一人で教える私塾は清河塾のみという稀有な存在であり、弁舌爽やかで容姿にも優れた八郎は、志士として申し分ない人物と評された。
浪士組結成と新選組の起源
尊王攘夷運動に身を投じた八郎は「急務三策」を松平春嶽に献策し、幕府はこれを採用して二百三十四名からなる浪士組の結成を許可した。文久三年(一八六三年)二月、将軍上洛の前衛として京へ出発した浪士組であったが、到着後に八郎は本当の目的が尊王攘夷の先鋒にあることを浪士たちに宣言。この方針に反対した近藤勇・土方歳三らが京都に残留し、これが後の新選組へと発展していく。
暗殺という最期
京都で幕府と完全に対立した八郎は江戸へ呼び戻され、文久三年四月十三日(一八六三年五月三十日)、佐々木只三郎ら幕府方の刺客六名により麻布一の橋で暗殺された。享年三十四。
後世評価
新選組誕生の直接的な引き金を引いた人物でありながら、自らはその新選組が生まれる前に非業の死を遂げた八郎の生涯は、幕末史の数奇な因縁として今なお高い関心を集めている。