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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
3件のイベント
承元2年(1208年)
承元2年(1208年)、後鳥羽上皇は全国の優秀な刀工を水無瀬宮に招集し、月番制で交代に作刀にあたらせる「御番鍛冶制」を設立した。備前・備中・山城の名工約40名が選抜され、上皇自らも「菊御作」の号で作刀に参加した。この制度は日本刀を武器の枠を超えた芸術品へと昇華させ、鎌倉中期の刀剣黄金時代を生み出した。後世の権力者が刀工を厚遇する慣例の嚆矢となった朝廷主導の刀剣文化振興策として、日本刀史上最も重要な文化政策の一つに数えられる。
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建長年間(1249〜1256年)
建長年間(1249〜1256年)、鎌倉幕府執権・北条時頼の招聘により山城から粟田口国綱が鎌倉へ移住し、その子または養子とされる新藤五国光(しんとうごくにみつ)が相州(相模国、現・神奈川県)に根づいた技法から相州伝の基盤を形成した。国光は山城伝と備前伝の両技術を統合し、荒沸出来と呼ばれる強烈な刃文を特徴とする新様式を創出。この技法は弟子の正宗(まさむね)・行光(ゆきみつ)に受け継がれ、「天下五剣」に数えられる名刀群を生んだ相州伝として完成した。
嘉禎4年/暦仁元年(1238年)頃
嘉禎4年(1238年)頃、備前国長船(現・岡山県瀬戸内市長船町)において光忠(みつただ)が作刀を開始し、備前長船派の基盤を確立した。後鳥羽上皇の御番鍛冶制(1208年)で隆盛した福岡一文字派の技術的遺産を受け継ぎつつ、吉井川流域の地理的優位性と豊富な砂鉄資源を活かして独自の様式を発展させた。光忠の子・長光、孫・景光へと三代にわたり継承された長船派は鎌倉〜室町時代を通じて日本最大の刀剣生産地となり、数多の名将が長船作を愛刀とした。