※画像はイメージです。一宮城
Ichinomiya Castle
一宮城は延元3年(暦応元年・1338年)築城、寛永15年(1638年)廃城に築かれた四国の名城。城主は一宮氏(小笠原長宗ほか)、三好氏、長宗我部氏(谷忠澄・江村親俊)、蜂須賀家政(The Ichinomiya clan (originally the Ogasawara clan); the Miyoshi clan; the Chōsokabe clan (Tani Tadazumi, Emura Chikatoshi); Hachisuka Iemasa)。
概要
概要
一宮城は、徳島県徳島市一宮町にあった山城で、標高144.3メートルの本丸を中心に東西約800メートル、南北約500メートルの範囲に曲輪を配した徳島県内最大級の山城である。南北朝時代に築かれ、戦国末期の豊臣秀吉による四国征伐では主戦場の一つとなった。徳島県指定史跡であり、続日本100名城の一つに選ばれている。
築城と一宮氏
延元3年(暦応元年・1338年)、阿波守護・小笠原長房の四男である小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼしてこの地に城を築き、一宮氏を称した。以後、一宮氏が代々の居城とした。
三好氏支配から長宗我部氏の侵攻へ
戦国期、一宮氏は三好氏の家臣団に組み込まれ、一宮成祐(一宮成助とも)は三好家中の有力者となった。天正5年(1577年)、三好長治の勢威が衰えると、成祐は細川真之に応じて挙兵し、同年3月18日に長治を自害に追い込んだ。しかし長宗我部元親の阿波侵攻が進むと、天正10年(1582年)11月7日、成祐は夷山城において長宗我部家臣・畑弥助の軍勢に襲撃され自害した。
豊臣秀吉の四国征伐
天正13年(1585年)5月、一宮城は羽柴秀長率いる4万の軍勢に攻められた。城方は約1万の兵でよく持ちこたえたが、水源をめぐる攻防が『太閤記』など複数の史料に記されており、同年7月下旬に開城した。
蜂須賀氏による改修と廃城
同年9月、羽柴秀吉から阿波一国を与えられた蜂須賀家政は一宮城を居城とし、現在残る石垣の多くはこの時期の大改修によるものとされる。天正14年(1586年)に徳島城を築いて移ると、益田持正が城代を務めた。寛永15年(1638年)、一国一城令により廃城となり、石材の一部は徳島城の修築に転用されたと伝わる。
構造と現存する遺構
最高所の本丸は結晶片岩を用いた野面積みの石垣に囲まれ、東側に櫓門を構えたとされる。天守台はないものの、南側の礎石跡から天守に相当する建物があった可能性が指摘されている。二の丸にあたる明神丸、三の丸の才蔵丸のほか、小倉丸・椎丸・水ノ手丸などの曲輪が配され、竪堀・横堀・堀切による横矢掛かりの防御が随所に見られる。
現状・アクセス
昭和29年(1954年)8月6日に徳島県指定史跡となり、平成29年(2017年)4月6日には続日本100名城(176番)に選定された。昭和61年(1986年)春には徳島市により本丸石垣が修復されている。一宮神社の駐車場から登山道を約30分登ると本丸跡に至る。
刀剣との関わり
見どころ
- 標高144.3メートルの本丸を中心に築かれた徳島県内最大級の山城
- 天正5年(1577年)一宮成祐が細川真之に応じて挙兵、三好長治を自害に追い込む
- 天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐で羽柴秀長の4万の軍勢と交戦、水の手を巡る攻防の末に開城
- 蜂須賀家政による大改修で結晶片岩の野面積み石垣を築造、徳島県下では徳島城に次ぐ規模
- 徳島県指定史跡かつ続日本100名城(176番)
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。