※画像はイメージです。岡豊城
Okō Castle
岡豊城は南北朝時代頃から、16世紀中頃に長宗我部元親が拡充に築かれた四国の名城。城主は長宗我部氏(長宗我部国親・元親)(Chōsokabe clan (Chōsokabe Kunichika and Chōsokabe Motochika))。
概要
岡豊城(おこうじょう)は高知県南国市に位置する山城であり、戦国時代に四国を統一した長宗我部氏の本城として知られる。城は標高97メートルの独立丘陵に築かれ、物部川と四方の山々に囲まれた天然の要害地形を利用した縄張りが特徴的である。
長宗我部氏は元来、土佐の小領主であったが、長宗我部国親(くにちか)の時代に岡豊城を拠点として勢力を伸ばし始めた。その子・長宗我部元親(もとちか・1539-1599)は「土佐の出来人」と称された智勇兼備の武将であり、永禄3年(1560年)の長浜の戦いで本山氏を破った初陣を皮切りに、天正13年(1585年)には四国をほぼ統一した。「一条兼定」や「元親百人衆」など、元親の軍事的才能を示す逸話は多く、土佐の民衆にも慕われた。
城は五段の段郭(だんくるわ)から成る本格的な山城であり、尾根上に主郭・二の段・三の段・四の段・詰の段が連なる構造を持つ。国親・元親の時代に大規模な整備が行われ、各段に矢倉・石垣・堀切(ほりきり)などの防御施設が設けられた。現在、城跡は高知県立歴史民俗資料館に隣接して整備されており、出土した土器・武器・瓦などの遺物が展示されている。
豊臣秀吉の四国征伐(1585年)により元親は土佐一国のみの支配に縮小されたが、その後も秀吉の九州平定・小田原征伐・朝鮮出兵に参加した。岡豊城は天正19年(1591年)に元親が浦戸城へ居城を移した際に廃城となった。元親の死後(1599年)、長宗我部氏は関ヶ原合戦で西軍に属し改易された。
刀剣との関わり
岡豊城と刀剣の関係は、長宗我部氏という一門が持つ戦国武将文化の中核に位置している。長宗我部元親は土佐の農民を武士として組織した「一領具足(いちりょうぐそく)」という独自の半農半士制度を採用したことで知られる。この制度の下、土佐の農民たちは農具と並んで刀・槍を装備して戦闘に参加した。刀剣は武器であると同時に、武士としての身分と誇りの象徴であり、一領具足の兵士たちにとって刀は魂の依り代であった。 元親自身は刀剣の目利きとしても知られ、戦利品や貢物として多くの名刀を入手した。四国統一の過程で攻略した阿波・讃岐・伊予の大名家から没収した刀剣は、岡豊城の武器庫に収められたとされる。土佐の刀工は「土佐物(とさもの)」として知られ、実戦的な刀を打った。 朝鮮出兵において、長宗我部元親は豊臣秀吉の命で朝鮮半島に赴いており、その際に土佐の刀が日本の武力の象徴として朝鮮の地に持ち込まれた。一領具足の制度の下で全土佐の農民が刀を持った時代の記憶は、今日でも土佐の武士文化の根幹として人々の誇りとなっている。高知県立歴史民俗資料館には岡豊城出土の鉄製品・武具が展示されており、戦国時代の土佐の武士文化を具体的に知ることができる。
見どころ
- 五段の郭跡 — 長宗我部氏の山城縄張りが尾根上に完全な形で残る
- 詰の段からの眺望 — 物部川・四国山地の壮大なパノラマ
- 高知県立歴史民俗資料館 — 岡豊城出土遺物と長宗我部氏関連資料を系統的に展示
- 土塁・堀切の遺構 — 戦国山城の防御技術を体感できる現地見学
- 長宗我部元親の銅像 — 土佐の英雄の姿を近くで仰ぐ
- 長宗我部氏終焉の地 — 関ヶ原後の歴史的経緯を辿る城郭散策
※開館時間・入場料は変更される場合があります。訪問前に公式サイトをご確認ください。