長尾顕長
Nagao Akinaga
山姥切国広を打たせた下野足利長尾家当主、織田・北条を渡り歩いた国境の国衆
解説
生涯
弘治2年(1556年)、下野国足利荘周辺を治めた足利長尾家に生まれた。兄に由良国繁がいる。永禄12年(1569年)、先代当主・長尾当長の死去にともない、その娘婿として家督を継承し、足利長尾家六代当主となった。
織田・北条への従属
天正10年(1582年)、兄・由良国繁とともに織田信長の関東方面の重臣・滝川一益に従った。しかし同年の本能寺の変後、関東情勢が流動化する中で後北条氏に従属し、以後は北条方の国衆として下野・上野方面の防衛にあたった。
小田原合戦と改易
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、顕長は本拠を離れて小田原城に籠城し北条方として抗戦した。しかし北条氏は同年に滅亡し、顕長も所領である足利を没収され、改易の憂き目にあった。その後は豊臣秀吉に召し出され、常陸国牛久において5000石を与えられて存続し、元和7年(1621年)に没した。
刀剣との関わり
小田原合戦を目前に控えた天正18年、顕長は刀工・堀川国広に一振りの太刀を打たせた。これは北条氏直から贈られた「本作長義」(山姥切長義)を手本とした写しであり、国広の代表作「山姥切国広」として今日に伝わる。本歌である山姥切長義と、その写しである山姥切国広がともに重要文化財に指定されているのは、日本刀の中でも稀有な例として知られる。
後世評価
長尾顕長は下野国境目の国衆として、織田・北条という当代の大勢力の間で去就を重ねながら家名を保った人物として評価される。彼が堀川国広に打たせた山姥切国広は、本歌の写しでありながら独自の高い評価を受ける名刀として現存し、顕長の名は刀剣史において今なお記憶されている。
所持した刀剣
- 山姥切国広