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※画像はイメージです。南北朝時代の備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町)に、備前刀工でありながら「備前にあって最も備前離れした刀工」と評される異色の名工がいた。長義(ちょうぎ、「おさふねながよし」とも読む)である。銘は「長義」の二字を切り、その作域は備前伝という枠組みの中で独自の光彩を放っている。
南北朝時代(1336〜1392年)は、朝廷が南北に分裂し全国規模の争乱が長期化した動乱の時代である。合戦の激化に伴って刀剣の需要は急増し、備前国長船はその一大供給地として繁栄を極めた。この時代の刀は、実戦を強く意識した身幅広く豪壮な姿を特徴とし、長義もまたそうした時代の空気を色濃く映した刀工の一人であった。
長船派は、光忠を祖として長光・景光・兼光へと続く系譜が主流とされるが、長義はこの嫡流とは別系に位置づけられる刀工である。作刀期はおおむね十四世紀後半、貞治・応安の頃を中心とする南北朝中期にあたる。自ら一派を率いて長義派の祖となり、門人には兼長・長守・守長らを数えた。後世、相州伝の巨匠・正宗のもとに集ったとされる「正宗十哲」の一人にも数えられている。
長義の作風を語るうえで欠かせないのが「相伝備前」という様式である。これは備前伝の伝統的な技法を土台にしながら、相州伝の激しい沸の働きを大胆に取り入れた作域を指す。長義の刀は、身幅が広く大鋒に結ぶ南北朝期らしい豪壮な太刀姿を本領とし、地鉄は板目肌に地沸が強くつき、映りの目立たない作例が多い点に特色がある。
刃文は湾れを基調に互の目を交え、腰の開いた大互の目や、互の目が二つ並んだ耳形の乱れを焼くなど変化に富む。沸が厚くつき、刃中には金筋・砂流しが顕著にあらわれ、足・葉がよく入る。帽子は乱れ込んで尖りごころに返り、返りが深いものが多い。備前伝の地鉄に相州伝の沸の働きを融合させたこの作域こそ、長義の真骨頂といえる。
相伝備前が生まれた背景には、次のような事情があったと考えられている。
長義の在銘作として名高いのが、重要文化財「刀 銘 本作長義」である。名古屋の徳川美術館に蔵されるこの一振りは、もともと銘が磨上げによって失われた無銘の刀であったが、後世、名工・堀川国広が天正十八年(1590年)、下野の武将・長尾顕長の依頼によって長文の添銘を刻んだことで、その由来が今に伝わっている。身幅広く豪壮な姿に、大模様に乱れた刃文を焼いた典型作として知られ、戦国末期の武将たちが長義の刀をいかに高く評価していたかを物語る一振りである。
また、重要文化財「太刀 銘 備前国長船住長義」は公益財団法人蟹仙洞(山形県)に蔵される。小板目に細かく沸えた地鉄に、互の目乱れと湾れを交え、足・葉が入り匂深く小沸を交える刃を焼き、帽子は乱れ込んで尖りごころに返る。長義在銘の太刀そのものは遺例が少なく、この一振りは長義の作域を知るための基準作として貴重な存在である。
長義は、長船派の嫡流を継いだ兼光とともに、南北朝期備前を代表する名工として並び称される。おっとりとした作域の兼光に対し、長義は覇気に富む作域と評され、相州伝を消化しきった独自性の高さが際立つ。技巧の冴えと華やかな焼刃により、両者は「兼光・長義」としばしば並記され、動乱の時代を生きた備前刀工の二つの頂点として位置づけられている。同じ長船の地に生まれながら対照的な作域を示した二人を見比べることは、備前伝という一つの流派が内包していた幅の広さを知る手がかりにもなる。
長義の作風を慕う写しは後代にも数多く制作され、相伝備前という様式は南北朝期の備前刀を語るうえで欠かせない概念として定着した。切れ味の点でも上位に位置づけられ、上作の刀工として後世に重んじられている。備前伝でありながら相州伝の激しさをまとうという矛盾を体現した長義の刀は、南北朝という動乱の時代そのものを映す鏡ともいえるだろう。
鑑賞の際は、板目肌に強くつく地沸と、湾れに互の目を交えた変化の多い刃文、そして厚い沸に浮かぶ金筋・砂流しの働きに注目すると、備前伝と相州伝が一振りの中でせめぎ合う様子を実感しやすい。長義の作風をより深く知りたい場合は、長義 の項もあわせて参照してほしい。