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※画像はイメージです。田沼意次は明和九年(1772年)に老中となり、天明六年(1786年)に失脚するまでの約十四年間、幕政の中心にあった人物である。それまでの幕政が年貢を中心とした農本主義的な財政に頼っていたのに対し、田沼は商業・流通から運上・冥加という形で収益を吸い上げる、より重商主義的な路線へと舵を切った点に特徴がある。この経済政策の転換は、刀剣を含む諸産業の流通構造にも少なからぬ影響を与えた。
田沼期の経済政策の柱の一つが、商人・職人の同業者組合である株仲間の公認と奨励である。株仲間を公認する代わりに運上金・冥加金という形で幕府に献金させる仕組みは、幕府の財政を潤すと同時に、業界ごとの流通経路を組織化する効果を持っていた。
刀剣そのものの流通が株仲間という枠組みでどこまで組織化されていたかは史料によって濃淡があるが、商業を軸に据えた田沼期の政策が、刀剣を含む工芸品全般の流通環境を変化させた時代であったことは確かである。それまで各地の城下町で完結しがちだった職人の生産・販売の仕組みが、株仲間を介した広域的な流通ネットワークへと組み込まれていった点は、江戸中期の経済構造の変化を読み解くうえで見落とせない要素である。
田沼は貨幣政策の面でも積極的な手を打った。明和九年(1772年)に鋳造が始まった南鐐二朱銀は、それまでの秤量貨幣(重さを量って使う銀貨)とは異なり、額面が定められた計数貨幣として流通させる試みであり、金銀の交換をよりスムーズにする狙いがあった。こうした貨幣制度の整備は商業取引全体の効率を高め、刀剣のような高額品を含む商品の売買にも一定の影響を及ぼしたと考えられる。また田沼は天明五年(1785年)に蝦夷地(現在の北海道)への調査団派遣を主導し、新たな交易・開発の可能性を探るなど、経済圏の拡大にも積極的に関心を向けていた。こうした対外的な経済フロンティアへの視線は、国内の農本主義に閉じない田沼期の政策姿勢を象徴する動きと言える。
刀剣史の観点から見ると、田沼期は「新刀」と呼ばれる時代区分の末期にあたる。この時期の刀工には、実用よりも数をこなす量産志向の作が目立つようになり、後世の評価では技術的な沈滞期とされることが多い。商業が活性化し物が動きやすくなった時代であったにもかかわらず、刀剣製作そのものの質が高まったわけではなかった点は興味深い対比である。この沈滞への反省から、田沼失脚後の寛政期以降、刀工の水心子正秀が古刀の技法への回帰を唱え、後の「新々刀」と呼ばれる刀剣復興の潮流を生み出していくことになる。経済政策の面で商業を重んじた田沼期の後に、あえて古い時代の技術へ立ち返ろうとする刀剣史の転換が起きたことは、流通の活性化が必ずしも工芸の質的向上に直結しないという逆説を示しているとも読める。
天明二年(1782年)から同八年(1788年)にかけて全国を襲った天明の飢饉は、田沼政治の末期と重なった。飢饉による米価高騰と社会不安は、商業重視の政策への批判を強める要因となり、田沼は天明六年に老中を退くことになる。刀工を含む職人たちにとっても、飢饉による経済の停滞は仕事の需要そのものを圧迫する厳しい時期であり、贅沢品・工芸品への支出が真っ先に切り詰められる局面では、刀剣の需要も影響を免れなかったと考えられる。
田沼意次の経済政策は、株仲間の公認による流通の組織化、貨幣制度の整備、経済圏拡大への関心という点で、農本主義から一歩踏み出した重商主義的な路線だった。この流通環境の変化は刀剣業界にも波及したが、同時期の刀剣製作そのものは技術的な沈滞期にあったとされ、経済の活性化と工芸の質は必ずしも一致しなかった。天明の飢饉による社会不安と共に田沼政治が幕を閉じた後、刀剣史は寛政期以降の復古的な潮流へと向かっていく。経済政策と工芸史という異なる軸を重ね合わせて見ることで、単なる年表以上の時代像が浮かび上がってくる。田沼期を含む十八世紀後期の刀剣文化をより広い視点から知りたい場合は、宝暦・天明期(1751〜1789年)の刀剣文化——田沼時代が育んだ武家礼法と刀装美の変容もあわせて参照してほしい。
日本刀×日本文化体験
観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。