※画像はイメージです。原田左之助
Harada Sanosuke
新選組十番隊組長——十文字槍の名手にして剛勇の士、刀よりも槍で語られる新選組唯一の槍使い
解説
槍の名手という異色の存在
天保十一年(一八四〇年)頃、伊予国(現・愛媛県)で生まれたとされる原田左之助は、新選組において極めて異色の存在であった。刀剣技術を中心とする剣士集団・新選組の中にあって、原田が最も得意とした武器は「十文字槍」だったからである。十文字槍は穂先が十字状になった槍で、突くだけでなく横薙ぎや引き斬りにも使えることから、近接戦闘において高い汎用性を誇った。
腹に刀傷の誇り
原田は自らの腹に刀傷を持ち、これを「槍の達人として一切刀を必要としない証拠」として誇示したという逸話が伝わる。相手の刀を腹で受けながらも槍で勝利したという武勇談は、原田の豪胆な性格と槍術への絶対的な自信を示している。この逸話の信憑性については議論があるが、原田が新選組内で武勇を誇る人物として知られていたことは確かである。
刀剣との関わり
刀剣サイトとして誠実に記すならば、原田の主武器は槍であり、佩刀についての具体的な史料は乏しい。幕末の武士として当然に刀を帯びていたが、実戦では槍を用いることが多かったとされる。新選組の剣士たちが「大和守安定」「加州清光」などを愛用した一方で、原田の佩刀に関する確実な記録は現存しない。十文字槍という刃物ではあるが、日本刀とは異なる「刃の道」を歩んだ武人として記憶される。
池田屋事件と戊辰戦争
元治元年(一八六四年)の池田屋事件にも参戦し、新選組の活動に常に従事した。鳥羽・伏見の戦い以降も近藤勇・土方歳三に従い転戦した。その後の消息については諸説あり、慶応四年(一八六八年)に上野の彰義隊残党として戦死したとも、大陸に渡ったとも言われる。死の真相は今日でも定かではなく、原田左之助という人物の謎めいた最期もまた、幕末の浪漫を彩る要素の一つとなっている。
新選組の武の多様性
原田の存在は、「新選組=剣士集団」というイメージを豊かにする。十文字槍を携え、刀よりも槍に己の誇りを見出した原田左之助は、刃物による武の世界の幅広さを体現した武人であった。
所持した刀剣
- 十文字槍(左之助が誇りをかけた主武器。穂先が十字状になった槍で、突き・薙ぎ・引き斬りの複合攻撃が可能な近接戦闘用の刃物。刀とは異なる武の道を体現した)
- 佩刀(詳細不明。幕末の武士として帯刀は当然であったが、原田の佩刀に関する具体的な史料は現存しない)