※画像はイメージです。竹俣兼光
Takenomata Kanemitsu
別名: 鉄砲切り兼光・一両筒・小豆兼光
解説
上杉謙信が愛した長船兼光
竹俣兼光(たけのまたかねみつ)は、南北朝時代の備前国長船派を代表する刀工・兼光が鍛えた太刀である。銘は「備前長船兼光 延文五年六月日」と伝えられ、刃長は二尺八寸前後(約八十五センチ)という長寸の豪壮な姿であったという。本阿弥光悦の押形には寸法や年紀に異同のある記載も残るが、表裏に棒樋を掻き、三鈷柄の剣を浮き彫りにした彫物が施されていたと伝わる。
号の由来と来歴
号は、上杉家臣・竹俣三河守慶綱が所持したことに由来する。慶綱は農民の手にあったこの刀を買い取ったと伝えられ、のちに主君・長尾景虎(上杉謙信)が召し上げて愛刀とした。謙信の没後は養子の上杉景勝へ伝わり、天正十四年(1586年)に景勝が上洛した際、豊臣秀吉へ献上されている。以後は豊臣家の宝刀として秀頼に伝わったが、慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣における落城で行方を絶った。徳川家康が黄金三百枚という破格の褒賞を掲げて捜索させたものの、ついに発見されなかったと伝えられ、現在も所在不明のままである。
「鉄砲切り」の異名
この刀には「鉄砲切り兼光」「一両筒」「雷切」「小豆兼光」など複数の異名が伝わる。いずれも斬れ味にまつわる伝承に由来するもので、実物が失われた今日でも、兼光という刀工の名を大衆的な伝説の域にまで押し上げた一振りとして語り継がれている。なお、立花道雪の佩刀として知られる「雷切(千鳥)」とは別の刀剣である。
兼光と切れ味伝説
作者の長船兼光は、南北朝時代の備前国長船を代表する刀工で、景光の子と伝えられる。相州伝の作風を備前に取り入れた「相伝備前」の代表格とされ、南北朝期の長大な太刀を数多く残した。兼光の作には本作のほかにも、水中を泳ぐ人を鎧ごと斬ったという「波游ぎ兼光」、大蛇を斬ったと伝える「水神切兼光」など、切れ味にまつわる号を持つ名物が集中しており、竹俣兼光の鉄砲切り伝説もその系譜の上にある。実物が失われた現在、これらの伝承こそがこの太刀の実体となっている。
逸話・伝説
鉄砲ごと斬り伏せた川中島
もっとも有名な伝承は川中島の合戦にまつわるものである。武田方の鉄砲足軽・輪形月平太夫が謙信を狙い撃とうとした際、謙信はこの太刀の一刀のもとに斬り伏せた。のちに平太夫の遺骸を検めると、身につけていた鎧もろとも、手にしていた火縄銃までが真っ二つに断ち切られていたという。ここから「鉄砲切り兼光」、また一両筒の火縄銃を断ったことから「一両筒」の異名が生まれたと伝えられる。
雷を斬った刀
号の元となった竹俣家以前、この刀を持っていた農民にまつわる伝説も名高い。雷雨の日、落雷に襲われそうになった百姓が咄嗟に刀を頭上にかざしたところ雷は逸れ、後に切先を検めると血が滴っていた——雷神を斬ったのだという。この伝承から「雷切」の異名が加わった。
豆切りと真贋の見分け
同じ農民が豆の袋を担いで運んでいた際、袋の穴からこぼれ落ちた豆が刃に触れただけで真っ二つに割れたという逸話も残り、初期には「小豆兼光」と呼ばれた。また後年、贋作騒動が起きた折には、元の持ち主が「ハバキから一寸五分ほどの鎬に、馬の毛が通るほどの小さな孔がある」と証言して本物を言い当てたとも伝わる。