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※画像はイメージです。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、旧幕府方に同情的な東北諸藩と新政府軍との全国的な内戦へと拡大していった。同年5月、会津藩・仙台藩を中心とする東北・北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍への抵抗姿勢を明確にした。その最前線となったのが、関東と奥州を結ぶ奥州街道の要衝・白河(現在の福島県白河市)である。白河小峰城をめぐる攻防は、閏4月から7月にかけて断続的に繰り広げられ、奥羽越列藩同盟軍と新政府軍双方が多大な犠牲を払う激戦となった。
戦いの初期、新政府軍は少数の兵力で白河城を占拠することに成功したと伝えられる。これを奪還すべく、列藩同盟軍は5月26日、約2,000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した。同盟軍はさらに27日、28日と連続して攻撃を仕掛けたものの、いずれも失敗に終わっている。6月に入ると、新政府軍は今市の戦いや上野戦争での勝利によって関東方面の戦力に余裕が生まれ、板垣退助率いる土佐藩迅衝隊や江戸の薩摩藩兵などの精鋭部隊が白河城へ増援された。同盟軍は6月12日にも攻撃を試みたが、これも失敗に終わり、以後、白河城は新政府軍の手に残り続けた。
白河口の戦いは、すでに西洋式の銃砲・大砲が主力兵器となった戦いであり、戦局の帰趨は基本的に火力と兵力の多寡によって決した。それでも、城郭や陣地への突入、夜襲、退却時の混戦といった近接戦闘の局面では、なお刀が用いられている。奥羽越列藩同盟に参加した諸藩の武士たちは、士分の証として帯刀する慣習を保ち続けており、銃を主兵装としながらも腰には刀を差すのが通例であった。白河をめぐる攻防が数か月にわたり一進一退を繰り返した背景には、こうした近代兵器と旧来の白兵戦術とが入り混じった、戊辰戦争期特有の戦闘の実態がある。
白河の防衛にあたった会津藩・仙台藩をはじめとする奥羽越列藩同盟の諸藩は、それぞれ藩お抱えの刀工を抱え、幕末の動乱に備えて武具の点検・補修を進めていた。もっとも、この時期にはすでに戦闘の主力が銃砲へと移行しており、刀剣は補助兵器、あるいは士分としての身分の象徴という性格を強めていた。白河をめぐる激戦の中で、刀そのものが戦局を決する場面は限られていたが、白兵戦に踏み込んだ武士たちにとって、刀は依然として最後に頼るべき武器であり続けた。
7月にかけて繰り返された奪還作戦もすべて失敗に終わり、奥羽越列藩同盟軍は白河での戦いに敗れ、以後、新政府軍は会津方面へと本格的な進撃を開始することになる。白河の戦いにおける敗北は、同盟軍にとって戦略上の大きな転機となり、後の戦局にも影響を及ぼした。市街地の多くは戦火で焼失し、白河は戊辰戦争屈指の激戦地としてその名を刻むことになった。現在も白河市では戊辰戦争にまつわる史跡や顕彰碑が残り、地域の歴史として語り継がれている。刀という視点から見れば、白河口の戦いは、近代兵器が戦争の主役となる過渡期にあって、旧来の武士の帯刀文化がなお色濃く残っていた戦いの実態を伝えている。
激しい攻防の中で白河小峰城の建物の多くは焼失し、戦後は石垣のみを残す姿となった。長く再建されないままであったが、発掘調査や絵図をもとに、平成3年(1991年)に本丸の三重櫓が木造で復元され、平成6年(1994年)には前御門も復元された。三重櫓の復元には、市内の激戦地であった稲荷山周辺から伐採された木材が用いられ、床材や柱材の一部には当時撃ち込まれた弾痕を見ることができるという。史実に基づく木造復元の先駆けとされるこの取り組みは、白河口の戦いの激しさを今に伝える貴重な記録ともなっている。
両軍は白河周辺の農村から兵糧・人足を徴発し、地域の住民は戦闘の直接の当事者ではないながらも、その被害を色濃く受けることとなった。城下の寺院や民家の一部は野戦病院として使われ、負傷者の手当てにあてられたと伝えられる。数か月にわたり戦線が固定した白河では、双方合わせて多数の死者が出たとされ、周辺には今も戦死者を弔う墓碑や供養塔が点在している。
現在、白河市内の歴史資料館には、この戦いに関連する武具や史料の一部が保存・公開されている。これらの史料は、銃砲がすでに戦闘の主力となりながらも、刀がなお近接戦の場面で用いられ続けた戊辰戦争期の実態を今に伝える貴重な手がかりとなっている。
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観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。