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※画像はイメージです。元治元年(1864年)6月5日、京都三条木屋町の旅館池田屋において、新選組が長州藩を中心とする尊攘派志士を襲撃し、多数を斬殺・捕縛する事件が起きた。池田屋事件と呼ばれるこの一件は、御所焼き討ちなどを計画していたとされる志士たちの機先を制した衝撃的な出来事として、京都の治安を担う諸勢力に強い緊張をもたらした。
事件の直後、新選組と京都守護職配下の会津藩兵は、逃亡した志士や関係者の残党を探し出すため、市中や近郊の茶屋・寺社などをたびたび捜索した。その数日後の6月10日、探索の手は京都東山の茶屋・明保野亭にも及んだ。ここで起きた小さな衝突が、思わぬかたちで京都政局を揺るがす外交問題へと発展していくことになる。
新選組は京都守護職・松平容保の配下にあって市中の警備・探索を担う立場にあり、会津藩兵としばしば合同で行動していた。明保野亭への出動も、こうした指揮系統のもとで両者が足並みをそろえて行った探索の一環であった。
6月10日、新選組と会津藩兵は、長州系の残党が明保野亭に潜んでいるとの情報を得て、同亭を包囲した。踏み込みに際し、庭先から逃れようとした人物があった。探索隊はこれを追い、槍で背中を突いて負傷させ、その場で取り押さえた。
ところが、取り押さえられた人物は長州系の志士ではなく、土佐藩士・麻田時太郎であったことが判明する。麻田がなぜその場に居合わせたのか詳しい経緯は判然としないが、少なくとも彼が探索の対象であった残党そのものではなかったことは、探索側にとっても誤算であった。麻田はいったん土佐藩邸へ引き渡され、事態の収拾が図られることとなった。
明保野亭事件でしばしば見落とされがちなのが、実際に麻田を負傷させたのが新選組隊士ではなく、会津藩士・柴司であったという点である。新選組と会津藩兵は合同で探索行動にあたっていたが、庭先の人物を追い、槍で突いたのは柴司であった。凶器も刀ではなく、探索・捕縛の場面で用いられていた槍である。
新選組の名が広く知られているためか、この一件も新選組による刃傷沙汰として語られることがあるが、実際の加害者は会津藩側の人物であり、用いられた得物も刀ではなかった。この違いは小さいようでいて、事件のその後の展開——会津藩と土佐藩という藩同士の問題として処理されていく経緯——を理解するうえで欠かせない前提である。
麻田時太郎が土佐藩士であったという事実は、事件をただの誤認捕縛では済まさない重みを持っていた。当時の京都では、諸藩の藩士が探索や警備の名目で他藩の藩士を傷つければ、藩同士の面目と外交にかかわる問題となりかねなかった。まして相手が敵対勢力の残党ではなく、幕府側に近い立場にあった土佐藩の藩士であったとなれば、なおさらである。
会津藩と土佐藩の間では、この一件の処理をめぐって緊張が高まった。背中を槍で突かれて負傷したという事実そのものが、武士としての体面にかかわる問題として受け止められた面もあったとされる。一歩間違えば藩同士の対立に発展しかねない状況の中、事態の収拾には相応の決断が求められることとなった。
事態を収めたのは、当事者双方の自裁であった。
双方が自ら責任を取って切腹したことにより、会津藩と土佐藩の正面からの衝突は回避された。池田屋事件からわずか数日のうちに起きたこの小さな衝突は、当事者二人の死をもって決着し、京都の政局に大きな傷跡を残すことなく収束していったのである。
明保野亭事件は、幕末京都における武装のあり方をよく示している。当時の武士は大小二本の刀を差すのが常であったが、市中の警備や探索といった特定の任務にあたる際には、これに加えて槍を携えることも珍しくなかった。新選組や会津藩兵による市中探索では、刀だけでなく槍もしばしば用いられた。狭い庭先や路地での捕縛には、間合いを取りながら相手の動きを制しやすい槍が実戦的な得物として選ばれることがあり、柴司が槍を手にしていたのも、こうした探索行動における一般的な武装のあり方を反映したものと見ることができる。
一方、事件を収拾した切腹という行為には、打刀とは異なる刀剣文化の一面が表れている。切腹には短刀や脇差が用いられ、それを補佐する介錯には打刀が用いられるのが通例であった。柴司の切腹に兄が介錯を務めたと伝わることは、切腹という行為が単なる自裁ではなく、近しい者が介錯人として立ち会う、様式を備えた儀礼であったことを物語っている。
探索の現場で振るわれた槍と、責任を取る場で用いられた刀——明保野亭事件は、一つの事件の中に幕末の武士が携えていた複数の得物と、それぞれが担っていた役割の違いを映し出している。実際に手を下したのが新選組ではなく会津藩士・柴司であったこと、用いられた得物が刀ではなく槍であったことは、事件を正確に理解するうえで見過ごせない事実である。そして、柴司と麻田時太郎という二人の武士が自ら切腹して責任を取ったことは、幕末の武士社会において刀剣がなお、名誉と責任の重さを体現する道具であり続けていたことを示している。
日本刀×日本文化体験
観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。