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※画像はイメージです。元治元年(1864年)7月、御所をめぐる市街戦——禁門の変(蛤御門の変)——に敗れた長州藩は、朝敵の烙印を押された。京都から敗走した藩士たちが萩へ帰り着く頃には、幕府はすでに諸藩へ第一次長州征伐の号令を発しており、長州藩は藩の存続そのものを問われる窮地に立たされていた。この対外的な危機は、藩内における長年の路線対立——開国か攘夷か、幕府への恭順か対抗か——を一気に先鋭化させた。禁門の変を主導した改革派(正義派)は敗戦の責任を問われる立場に追い込まれ、これに対して幕府への恭順を説く保守派(俗論派、俗論党とも呼ばれる)が藩論の主導権を奪い返す機会をうかがっていた。同年が干支で甲子(きのえね)にあたることから、この後に続く藩内粛清は後年「甲子の獄」と呼ばれることになる。禁門の変そのものの経緯——来島又兵衛や久坂玄瑞らの奮戦とその最期——は既に広く語られているため、ここでは深入りしない。本稿が追うのは、敗戦の余燼の中で長州藩が自らの手で引き起こした内訌と粛清の顛末であり、そこに関わった刀剣の役割である。
禁門の変からほどなく、長州藩内では俗論派がクーデター的に実権を掌握した。藩庁の要職は次々と保守派に入れ替わり、藩論は恭順・謝罪へと大きく舵を切る。この転換のもとで最初に断行されたのが、禁門の変で長州軍を率いた三家老の処断であった。
三名はいずれも禁門の変で長州軍の指揮を執った家老であり、元治元年11月、相次いで切腹を命じられた。征長軍の参謀を務めた西郷隆盛が三家老の処断を強く求めたためとされる。武家社会において切腹は名誉を保ったまま死をもって責任を果たす作法であり、家老という身分にはこの処断が選ばれた。三家老の死は、長州藩が幕府に恭順の姿勢を示す最初の証として、藩内外に大きな衝撃を与えた。
三家老と同じ禁門の変で軍議に加わった四人の参謀——宍戸真澂・竹内正兵衛・中村九郎・佐久間左兵衛——は、家老より下の身分であったため切腹ではなく斬首に処された。三家老の切腹が相次いだ元治元年11月、四参謀もまた野山獄で斬首され、命を絶たれた。武士にとって切腹より重い恥辱とされた斬首という処分は、俗論派政権が正義派に対してどれほど苛烈な姿勢で臨んだかを示している。
粛清はここで終わらなかった。俗論派は藩論を主導してきた改革派の政治家・志士をなお捕らえ続け、野山獄に投じていた。元治元年12月19〜20日、山田亦介・松島剛蔵ら残る7名が野山獄で処刑され、先の四参謀と合わせて11名——後世「甲子殉難十一烈士」と呼ばれる——が甲子の獄の犠牲となった。
山田亦介や松島剛蔵を含む面々は、藩政・軍制改革を担ってきた人材であり、その大量処刑は藩の人材基盤そのものに深い傷を残した。十一烈士はのちに萩・東光寺の墓所に三家老らとともに祀られている。
改革派の中心にあって藩論を長く主導してきた周布政之助も、この政変の中で表舞台から追われた。高杉晋作らと藩士の暴発を抑えようと奔走したが果たせず、禁門の変と第一次長州征伐という事態を招いた責任を問われる形で次第に実権を奪われていく。元治元年9月26日、周布は山口矢原の庄屋宅で切腹し、42年の生涯を閉じた。俗論派による粛清が本格化する直前の自裁であり、改革派にとっては大黒柱を失う痛手であった。周布の死は、三家老切腹や十一烈士処刑に先立ち、藩論が保守派へ大きく傾いていくことを予感させる出来事でもあった。
甲子の獄で相次いだ処断は、いずれも武家の刑罰儀礼に則って執行された。切腹では、罪人が短刀あるいは脇差を腹に立てた直後、介錯人が打刀で首を落とし、苦痛を長引かせぬよう作法が整えられていた。介錯を務める者には確実な一刀の技量が求められ、対象の身分や執行の場に応じて、相応の手練れが選ばれるのが通例であった。一方、家老より下位の者に科される斬首は、罪人を跪かせて打刀で首を落とす処刑であり、切腹のような名誉ある死に方とは明確に区別された。
これらの刀剣は美術品である以前に、武家の身分秩序と死生観を体現する実用の道具であった。甲子の獄における切腹と斬首の使い分けそのものが、藩内でどの身分にどれほどの「名誉」を認めるかという政治的判断でもあったことを物語っている。
十一烈士のうち後半7名の処刑は、高杉晋作の決起と時を接して行われている。元治元年12月15日、下関の功山寺で高杉がわずかな同志とともに挙兵したとの報せが萩へ届くと、俗論派政権はその3日後、なお獄に残っていた者たちの処刑を強行した。追い詰められた保守派の最後のあがきともいえる処断であった。しかし高杉の決起はやがて藩内の勢力図を塗り替え、俗論派政権を打倒する原動力となっていく。甲子の獄で命を落とした人々の存在は、その後の長州藩が再び倒幕路線へと転じていく過程で、失われた犠牲として重く記憶されることになった。
日本刀×日本文化体験
観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。