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※画像はイメージです。慶応4年(1868年)4月、江戸城が無血開城されるとともに、新政府への恭順を拒む旧幕府方の一部勢力は、なお抵抗を続けるべく北関東・奥州方面へと展開していった。歩兵奉行・大鳥圭介が率いる伝習隊を中心に、甲州勝沼の戦いで敗れた新選組の残党を率いる土方歳三、会津藩士・秋月登之助、桑名藩士・立見鑑三郎らの部隊が合流し、4月11日には総勢およそ2,000の旧幕府方連合軍が形成された。彼らが次の目標としたのが、日光街道・奥州街道が交わる交通の要衝・宇都宮であった。
4月19日、秋月登之助を総指揮とし、土方歳三が軍事の参謀格として作戦に加わった旧幕府方連合軍は、宇都宮城への攻撃を開始した。新政府方の守備兵力は手薄であり、旧幕府方は激しい攻防の末に城を制圧し、翌20日には大鳥圭介らが入城して本営を構えた。宇都宮城の一時的な占拠は、江戸開城後も抵抗を続ける旧幕府方勢力にとって大きな戦果となり、北関東における戦線を広げる足がかりとなった。
しかし、新政府軍はただちに態勢を立て直し、4月23日、宇都宮城の奪還を目指して反撃を開始した。激しい攻防の末、城は新政府軍の手に落ち、旧幕府方連合軍は撤退を余儀なくされた。この戦闘の最中、土方歳三は足に銃創を負い、前線指揮を離脱することとなった。負傷した土方は後方に退いて療養し、やがて会津へと向かうことになる。宇都宮城の戦いは、京都で新選組副長として剣を振るった土方歳三が、銃砲を主体とする近代戦の中で負傷するという、時代の転換点を象徴する出来事でもあった。
大鳥圭介の率いた伝習隊は、幕府陸軍がフランス式訓練を導入して編成した洋式歩兵部隊であり、ライフル銃を主兵装としていた。一方、土方歳三ら新選組残党は、京都での市中警護時代から刀を主たる武器としてきた出自を持つが、戊辰戦争に転戦する中では彼らもまた銃器を手にし、刀は接近戦・白兵戦における予備の武器、あるいは士分としての象徴という位置づけに変化していった。宇都宮城をめぐる攻防でも、城門への突入や市街地での混戦においては、なお刀が用いられたと考えられるが、戦闘の帰趨を決したのは基本的に銃砲の火力であった。
宇都宮城は度重なる攻防戦の中で大きな被害を受け、戦後は再建されないまま長く放置されていたが、現在は宇都宮城址公園として一部が復元され、市民に親しまれている。土方歳三が北関東を転戦し負傷した史実は、地元宇都宮でも観光資源として紹介され、新選組ゆかりの地をたどる散策コースも整備されている。宇都宮城の戦いは、京都で刀を振るった新選組が、戊辰戦争を通じて銃砲中心の近代戦へと組み込まれていく過渡期を象徴する戦いであり、刀という武士の伝統的な武器が、なお士分の証として身に帯びられ続けた時代の実態を伝えている。
宇都宮城を失った旧幕府方連合軍は、日光方面へ退いたのち、今市などでの戦闘を経てさらに北へと転戦を続けた。土方歳三は負傷の療養後に戦線へ復帰し、その後も会津・箱館へと転戦を重ね、最終的に箱館戦争で戦死することになる。宇都宮での敗退は、旧幕府方にとって関東における組織的な抵抗拠点を失う大きな痛手となり、以後の戦いはより北方へと舞台を移していった。伝習隊や新選組残党にとって、宇都宮城の戦いは、京都以来の武士としての戦い方から、銃砲を中心とする近代戦への適応を迫られた転機の一つであったといえる。
大鳥圭介が率いた伝習隊は、幕府がフランス軍事顧問団の指導のもとで編成した、当時最新鋭の洋式歩兵部隊であった。射撃訓練を重視した部隊編成は、従来の刀を中心とした武士の戦い方とは一線を画すものであり、宇都宮城をめぐる戦いは、こうした近代的な軍制と、なお刀を身分の証として帯び続けた旧来の武士たちとが同じ戦場に立った、過渡期の戦闘の実態を映し出している。
宇都宮城址公園には、当時の土塁や堀の一部が復元されており、資料館では戦いにまつわる史料が展示されている。土方歳三をはじめとする旧幕府方の武士たちが、刀を身分の象徴として帯びながらも銃砲中心の戦場に立たされた実態は、幕末から明治へと向かう武具の移行期を考える上で貴重な事例となっている。
この戦いを機に、宇都宮周辺の旧幕府方勢力は組織的な拠点を失い、以後は会津方面への合流を目指す小規模な転戦を続けることとなった。
日本刀×日本文化体験
観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。