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※画像はイメージです。慶応4年2月30日(西暦1868年3月23日)、京都において英国公使ハリー・パークスに対する暗殺未遂事件が起きた。戊辰戦争の戦火がいまだ収まらない時期、新政府が明治天皇への列国公使の正式拝謁を初めて許可するという、開国後の日本にとって象徴的な外交儀礼が準備されていたまさにそのさなかの出来事だった。
パークスは宿舎としていた知恩院を出立し、御所へと向かう正式な行列の途中を、尊王攘夷の思想を持つ浪士二名に斬りかけられた。幕末の混乱期を通じて攘夷派による要人襲撃は繰り返されてきたが、パークス襲撃は新政府誕生直後という極めて微妙な時期に発生し、開国・国際協調路線を掲げたばかりの新体制の信頼性を根底から揺るがしかねない危機として、内外に深刻な衝撃を与えた。
襲撃を実行したのは三枝蓊(さいぐさしげる)と朱雀操(しゅじゃくみさお)の二名で、いずれも攘夷を旗印に掲げる浪士だったと伝わる。二人はパークス一行の行列に斬り込み、随行していたイギリス兵9名が負傷する事態となった。
護衛にあたっていた薩摩藩士の中井弘(なかいひろし)と、護衛として駆けつけた土佐藩参政の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)がただちに応戦した。朱雀操はこの応戦の中で斬られ、その場で絶命した。三枝蓊も重傷を負って取り押さえられ、暗殺計画は未遂に終わった。パークス本人への直接の危害は及ばなかったが、白昼の京都、しかも天皇への公式拝謁という儀礼の直前という場面で外国公使が斬りかけられたという事実は、外交的な危機として新政府首脳に深刻に受け止められた。
新政府は事態の収拾に向けて即座に動いた。捕縛された三枝蓊は粟田口の刑場で斬首に処され、現場で討ち取られた朱雀操の首とあわせて、二人の首は3日間にわたって晒されたと伝わる。さらに事件への関与が疑われた周辺人物は隠岐島への流罪に処された。
これら一連の措置は、単なる刑事罰にとどまらず、諸外国に向けた強いメッセージとしての意味を帯びていた。
外国公使の安全確保は外交上の信頼に直結する。京都という新政府の実質的な本拠地で公使が白昼堂々と斬りかけられたこの事件は、諸外国の公使館にも大きな衝撃を与え、日本国内の治安情勢に対する警戒感を一時的に高めた。事件後、新政府は護衛態勢の抜本的な強化にも取り組んだとされる。
この事件において護衛として活躍した後藤象二郎には、後にイギリスのヴィクトリア女王からサーベルが贈られたと伝わる。刀の国の武士が、西洋の君主から西洋の刀剣を贈られるという異例の経緯を持つこのサーベルは、日英外交史の一幕として今に伝えられている。
事件の現場には、過渡期の武器体系が如実に映し出されていた。
幕末から明治初頭にかけての護衛現場は、まさにこのような過渡的な様相を呈していた。洋装が広まりつつあった時代にあっても、日本側の護衛は依然として帯刀を基本とし、白刃による近接戦闘が決定的な局面となったこの事件では、日本刀の実戦としての有効性が示された。一方でヴィクトリア女王から贈られたサーベルは、西洋の刀剣が儀礼的な贈答品として日本に持ち込まれた例として、刀剣が東西の外交慣行においてどのような象徴的役割を担ったかを考えるうえで興味深い品といえる。日本刀が護衛の実務で振るわれ、その功績に対する返礼として西洋の刀剣が贈られるというこの逸話は、刀剣をめぐる幕末の国際的な文脈の縮図ともいえるものだ。
パークス襲撃事件は、しばしば攘夷運動の最終局面を象徴する出来事として位置づけられる。この事件を境に攘夷思想に基づく武力行動は急速に下火となり、要人を狙う浪士たちの活動が歴史の表舞台から退いていく流れが決定的となった。
護衛側が刀を実戦で用いてパークスの命を守り抜き、その功績が国際的な贈答というかたちで記憶されたこと。この一点をとっても、パークス襲撃事件が日本刀の歴史において占める位置は小さくない。攘夷派の刃と、それを制した護衛の刀が同じ「日本刀」という道具を介して激突したこの出来事は、刀剣が思想と意志の器として最後期に機能した場面の一つとして記憶に値する。
事件からわずか数年後の明治9年(1876年)、廃刀令が布告された。帯刀は法的に禁じられ、日本刀が護衛の実務で抜かれる時代は幕を閉じた。中井弘や後藤象二郎がパークスを守るために刀を抜いたこの瞬間は、武士が刀剣を実戦護衛の道具として用いた最後期の記録として、日本刀の歴史に刻まれている。攘夷という思想が消えゆくなかで、護衛と凶刃の両方が同じ刀という道具を通じて交わったこの事件は、武士の時代の終わりと、刀剣が担う役割の変容をともに照らし出す、幕末史の象徴的な一場面である。
日本刀×日本文化体験
観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。